三重 東海あまのじゃくツアー

戦国時代の名将は最後まで戦略家だった-鳥羽・答志島に残る首塚

記事公開日:2006年7月18日

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 伊勢湾で最も大きな島である鳥羽市の答志島。この島には戦国武将だった九鬼嘉隆の墓があり、その九鬼嘉隆率いる九鬼水軍が作ったともいわれる制度が今も残っています。島の約8割の人が漁業に従事していて、新鮮な海の幸をいただくこともできます。鳥羽の港からわずか数十分。船に乗って離島に渡ると、そこに流れる空気は全く違います。歴史を感じて、地理を感じて、そしておいしい料理を味わいます。

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織田信長お抱えの九鬼水軍

 織田信長のお抱え水軍であった九鬼水軍。水軍の将だった九鬼嘉隆は3万5千石の禄を得て鳥羽城主となり、秀吉の下でも活躍します。戦略家であり、戦乱の世で九鬼家を永続させるために策を練り、その戦略を貫き通すために最後は自刃してしまいます。今回は、答志島に眠る九鬼嘉隆にまつわる遺跡を見ていきます。

 鳥羽市営定期船のりばから答志島行きの船に乗ります。この船はここ佐田浜を出発すると、答志島の和具港を経由して答志港へと向かいます。私たちの目的地は和具港ですので、最初に停泊した港で下船することになります。所要時間は20分強、運賃は530円です。結構高いんです...。

 ちなみに答志港まで乗っても同じ料金です。船には生活用品などの貨物もたくさん積まれ、船を通学に利用している学生や、営業活動でしょうかスーツ姿の方も見られました。船に乗るということは私たちにとって非日常体験ですが、それが日常という人々を見ると、実に大変なことだと思います。便数が多ければそうでも無いでしょうけど、わずか1日8本では...。

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和具港に到着

 和具港に到着すると、宿泊するホテルの方が出迎えてくれて、ワゴン車へと案内されました。すると、先ほどのスーツ姿の人も一緒にワゴン車へ。この島に何の営業活動に来たんだろう?と思いきや、島のことについて私たちに案内をはじめました。ホテルの方のようです。船で市街地へと出てホテルの営業活動に行ってらっしゃったわけですね。わずか数分でホテルに到着です。

 私たちはホテルに荷物を置くと、九鬼嘉隆のお墓を見るために、今、ワゴン車に乗ってきた道のりを徒歩で戻ります。

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胴塚・血洗い池

 和具の船乗り場から少し南へ歩くと、左手に「胴塚・血洗い池」「首塚」という案内看板が現れますので、「胴塚・血洗い池」とある方にまず行ってみます。車は通れないと思われる路地をしばらく歩くと、上の「ハ」の部分が取れてしまい、「ム民館」になってしまっている「公民館」があります。ここが、九鬼嘉隆が切腹したといわれる「洞泉庵」の跡です。すると公民館の前には小さな池があります。「血洗い池」です。

 この池は、背後の山からしみ出る岩清水が溜まってできたもので、洞泉庵の前庭となっていました。嘉隆が切腹した際、血に染まった刀をこの池で洗ったと伝えられていることから「血洗い池」と呼ばれています。一度は荒廃してしまったそうなのですが、有志の手によって整備されたとのことです。

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 そしてその池を過ぎて数十メートル歩くと、左手に嘉隆の胴塚があり、五輪塔が建てられています。三重県指定文化財となっているこの胴塚は、嘉隆の子・守隆が1600(慶長5)年に建てたものを、その守隆の子・隆季が1669(寛文9)年に再建したものです。1600(慶長5)年といえば、そう関ヶ原の戦いがあった年。

嘉隆の切腹はその関ヶ原の戦いに大きく関係しています。嘉隆は関ヶ原の戦いで西軍(石田三成)について敗れたことから切腹しているのですが、実はそれは戦略だったといいます。一体どういうことなのでしょう。

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坂を上って首塚へ…

 胴塚からは遊歩道が見晴し台へと続いているのですが、そちらは後ほど行くことにしまして、再び和具港方面に戻って、さらに南へと歩きます。南に歩くと、道路はやまよという旅館の前で終点になります。しかしそこには「首塚」と書かれた東向きの矢印看板がありますので、行ってみます。その道はまるで民家の脇を通る抜け道のよう。

 看板があるから行けるようなもので、看板が無かったらただどこかの家にだけ通じる道のようで、遊歩道だとは到底思えません。「急傾斜地崩壊危険区域」という看板があり、この先激しい坂道があることが容易に想像できました。それでも遊歩道と名乗っているだけあって、階段はちゃんと整備されており、ロープなど登山装備が無いと上れないといった状態ではありません。

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 そんな険しい道を歩くこと十数分。山の上にぽっかりと見えた木の塊部分に到着です。ここが九鬼嘉隆の首塚です。

親は西軍・息子は東軍

 関ヶ原の戦いの際、九鬼嘉隆は既に隠居をしていました。嘉隆は隠居の身でありながら石田三成の西軍側につき、既に家督を譲っていた息子の守隆は徳川家康の東軍に味方して戦ったのです。親子にもかかわらずなぜ別々の軍の味方をしたのでしょう。戦の見込みがそれぞれで違ったのでしょうか。違います。親子がそれぞれ別の軍につくことで、どちらが勝利しても九鬼家を存続させるための作戦だったと言われているのです。

 結果、東軍の徳川家康が勝利を収めます。負けた西軍についていた嘉隆はこの答志島へと逃げてきました。息子の守隆は戦で勝利に大きく貢献したため、父親・嘉隆の助命を家康に直接嘆願します。家康はこれを認め、そのことを伝える遣いを鳥羽に送るのですが...。

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 既に嘉隆は切腹をしていました。息子と二人でたてた戦略を最後まで貫き通したのです。なぜ胴と首が別の場所に埋葬されているのかといいますと、首は伏見城の家康のもとに実検に供され、その後答志島に持ちかえられたのですが、頭部は鳥羽城の見える場所にと、この築上山に埋葬されたのです。この首塚からは鳥羽方面はもちろんのこと、伊良湖水道や愛知県までをも見渡せます。

 切腹を知った守隆はどのような心理だったのでしょう。戦国時代に名を馳せた水軍の将は、最後まで戦略を貫いたというわけです。しかし、その守隆の世継ぎを巡って争いがおきてしまい、幕府の手によって九鬼家の領地は山へと移され、九鬼家歴代の所領であったこの志摩を九鬼家は失ってしまうことになります。

 ところが、この答志島にはその九鬼水軍が作ったといわれる制度が今も残されているといいます。次回は今の答志島を見て回ることにします。

関連情報

答志島旅館組合
水神の宿 中村屋

答志島(三重・鳥羽市)MAP

答志島

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