15.長崎で時空の旅 あまのじゃくツアースペシャル

いざ上陸!そこにあった暮らしは...軍艦島上陸(2/3)

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★上陸できるのは南側の一角です
★当時の生活に思いを馳せながら
★不便な部分もあったけど心も物質的にも豊かな暮らしだった

 かつては炭鉱の島として栄えたのに、1974(S49)年に無人島となって以来、ずっと上陸が禁止され、35年ぶりに上陸できるようになった「軍艦島」こと長崎県の端島。長崎港から船に乗って1時間、ようやく到着しました。この日、雨は降っていなかったものの、風が強く波があり、上陸できるかどうかはギリギリだったのですが、何とか上陸できることになりました。

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 波があるとなぜ上陸できないのか。それは、軍艦島の船着き場である「ドルフィン桟橋」に着いてすぐにわかりました。軍艦島は、周囲わずか1.2キロの島に、最盛期は5,000人以上が暮らし、人口密度は東京都区部の9倍、それは世界一を誇っていた島です。ですから、港に大きな面積を割くことなどできず、この桟橋も島の外側にあり、どうやって船を接岸するのかと言いますと、ある程度近づいたら係員が桟橋に飛び乗り、手作業によってロープで船と桟橋をくくりつけるのです。これは...波が高かったら無理です。

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それでも島は大きくなっていた

 接岸作業には10分程度かかり、それから上陸となります。軍艦島に滞在できるのはわずか1時間、それはもちろん、下船乗船の時間も含まれていますので、本当にわずかな間のみです。わずかなのは時間だけではなく、上陸できる場所はあらかじめ決められた見学コースの部分だけで、それは島の南西の一角のみです。

 でも、それは島の現状を見て仕方の無いことだとすぐにわかりました。もともとは、現在の3分の1程度の小さな島だった端島は、何度も繰り返された埋め立て工事によって大きくなったもので、海岸線は直線、しかも護岸堤防で覆われており、余白と言えるような場所はありません。そんな狭い空間に所狭しと建造物が建てられ、それらの全てが今、現在進行形で崩れかかっているのです。万が一のこと...いや、部分的な崩壊は万が一とは言えない程に起きやすい状態なのです。では、そんな廃墟の島に足を踏み入れます。そこにあった暮らしに思いを馳せながら、見学していきます。

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まずは労働の現場から

 島は、中央が「丘」のようになっており、それを境に東西に別れていて、西側は「住居エリア」そして東側が北端の小中学校を除いて「炭鉱エリア」となっていました。ドルフィン桟橋の目の前にある「第1見学広場」。ここはまさに炭鉱の入口。労働者がこれから仕事に向かうという場所だったところです。

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 ブロワー室など、鉄筋コンクリート製だった建物の外側は残っていますが、レンガだった部分は無残にも崩れ去っています。

 さらに、地下深くから掘り出された石炭を運んでいたベルトコンベアーは、その骨格部分だけが残されているのみで、その姿は何か別なもののような感じさえします。かつてはここを「黒いダイヤ」と呼ばれた良質な石炭が流れていたのでしょう。

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 そんな「黒いダイヤ」を掘る仕事に従事していたわけですから、労働者の賃金は高く、軍艦島の人々は比較的裕福な暮らしをしていたと言われています。ガイドの方のお話によりますと、昭和30年代で住居の家賃は10円、電気・ガス・水道料金が5円ではあったものの、実質的には三菱が負担していたそうです。そう、ここは三菱の社有地だったわけですから、全てが実質会社支給だったのです。

 労働が厳しかった鉱員家庭の生活水準は高く、庶民の間では高嶺の花だったテレビの普及も早く、高層住宅の屋上には八木・宇田アンテナが乱立していたそうです。そんな豊かな暮らしぶりの一方で、不便なことももちろんありました。その不便さは、とてつもないものでした。

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豊かな暮らしと隣り合わせの不便さ

 では続いて、会社事務所と総合事務所のあった第2見学広場へと足を進めます。事務所の建物は、レンガ造りの部分が一部残っている一方で、鉄骨部分も壊れかかっており、一目見て崩壊が進んでいる状況であることがわかります。

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 何が不便だったのか。それは買物でしょうか、通勤でしょうか、はたまた娯楽でしょうか。いえ、そうではありません。困ったのは2つの「水」の問題です。パイプラインが完成する1957(S32)年までは、海水を蒸留したり、船で真水を運んだりしていて、「水1滴は絹1枚」といわれ、1日に1家族に支給された水は桶1杯分だったそうです。

 パイプラインが開通した後は、1日あたり1,350トンの送水が行われるようになり、水道環境は改善されたものの、それでも水は貴重なものに代わりなかったようです。

 そしてもうひとつは、海に囲まれた外海であることの宿命。「台風」です。酷い時には、西岸を襲った波の着地点が東岸だった...つまり、島の高層住宅全体が大きな波をかぶるといったこともあり、桟橋が流出してしまうこともあったそうです。

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 無人島になって35年。建物の損傷が激しいのは、台風などの影響も大きいといいます。

日本初の鉄筋コンクリート高層アパートとプール

 では、最後の見学場所である「第3見学広場」へ。ここは島の南西にあたる場所で、右手が会社部分、そして左手にようやく住居部分が見えてきます。

 この第3見学広場の目の前には、下請住居や倉庫があったようですが、それらは全て崩れており、その先にある鉱員住宅まで瓦礫の山となっています。そして気になるのが、その反対側、背後にある「プール」の跡です。

 海がこんなに近い...というよりも、海に囲まれた小さな小島なのに、プールが必要なの?と思ってしまいますが、先述のとおり、軍艦島は高い護岸に囲まれていて、海は遊泳禁止となっていました。夏休みには海水浴に船で他の島に出かけたほどなのです。なので、このプールは重要な施設だったというわけです。もちろん、真水ではなく海水プールでした。

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 この第3見学広場からは、鉱員住宅だった7階建ての30号棟と、6階建ての31号棟、そして職員住宅だった5階建ての25号棟を見ることができます。この30号棟こそが、日本で初めて建設された鉄筋コンクリート造高層アパートです。当初は4階建てだったものがすぐに7階建てに増築されたものです。

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 そんな高層アパートが建てられたのは1916(T5)年。大正時代に7階建てです。小さな限られた面積の島に、労働者を住まわせるためには、上へ上へと空間を広げていくしかなかったのです。

お寺や神社はあったのかな...?

 当時の暮らしぶりはどんなものだったのかといいますと、島には神社やお寺もあり、お祭りや花火大会も開かれたとのこと。閉ざされた空間に多くの人が暮らしているわけですから、皆が顔見知りで、それは大きなひとつの家族のような、強固な結びつきのコミュニティが形成されていたそうです。

 端島神社は1号棟という建物の名になっていて、木造だった拝殿は全壊してしまっていますが、本殿と境内だけは今も残っています。その一方で、お寺は敷地を確保することができず、島唯一の泉福寺は23号棟の2階にあり、墓地は島内にはありませんでした。

 火葬場は、船でやってくる途中に見かけた、公園の跡が残る隣の中ノ島にあり、そこで火葬された後は、四十九日法要を済ませると、実家のお墓へと埋葬されることになっていたそうです。

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当時のくらしぶりは?

 買物などはどうしていたのかといいますと、島へは毎日食料が船で運ばれ、島のなかで開かれたマーケットで食料を買うことができたそうです。運搬に経費がかかったにもかかわらず、全て三菱の手による、社員の需要のための輸送であったため、本土に比べて物価は総じて安かったとのこと。

 奥さまの用事は買物だけでは当然済みません。島には郵便局や警察の派出所、町役場の端島支所もあり、それらの役場に従事する公務員も軍艦島に住んでいました。三菱の社有地に公的な施設があり、公務員が住んでいるというのも不思議な感じがしますが、5,000人も暮らしていれば、それは絶対必要になりますものね。もちろん、学校の先生が住む教員住宅もありました。

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 食料品が買えて、郵便が出せて、役所の用事が済ませられても、それでもやっぱり、奥さまはもっといろんな買物がしたくなるというもの。軍艦島の人たちは、月に2~3回は船に乗って島外に買物に出かけていたそうです。そうでもしないと、奥さまたちはストレスが溜ってしまいますものね。女性にとって買物は最大のストレス発散ですから。

 奥さまのストレス発散だけではいけませんよね。もちろん、毎日炭鉱で働くご主人だってパーっと発散したいものです。そんな施設も島には当然揃っていました。

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 まずは映画館。テレビがやってくるまでは最大の娯楽だったようで、荒波で、食料を運ぶ船が島に接岸できない時でも、何とか手渡しで、映画のフィルム3本だけは渡した...なんてエピソードも残っています。

 そして理髪店にパチンコにスナック、雀荘、卓球場に弓道場など。仕事の疲れを癒すスポットは全て島の中に揃っていました。もちろんそれらも全て、三菱が経営していました。しかしです。これだけで男のストレス発散は止まりません。

 なんと...売春宿もあったというのです!もちろんそれも、三菱の経営だったそうです。まあ、閉鎖された空間で、逆に何か事件が起こってもいけませんからね。労働者の息抜きも含めて、全てを島内で完結させる必要があったというわけです。

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子どもたちはどうだったのか

 さて、子どもたちはどのように暮らしていたのかといいますと、島で生れた子どもたちは、9階建ての屋上にあった「屋上幼稚園」に通い、7階建ての「端島小中学校」へと進学しました。学校にはちゃんと体育館やグラウンドもあり、運動するスペースは確保されていました。

 遊び場はもちろん、高層住宅が立ち並ぶ住居エリア一帯です。全てが屋根に覆われていて、雨の日でも傘を差すことなく駆け回ることができたため、いつでも鬼ごっこができたことに加え、8階や9階といった高さのある階段を走り回るわけですから、それは縦横無尽な鬼ごっこが常に展開され、体力はついていったことでしょう。

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 そんな、絆の深い、コミュニティが形成されていた一方で、中学を出る子どもたちには、大きな運命が待ち構えていました。そう、この島には高校がないのです。これだけ絆が深く、知らない人はいないような環境で育った子どもたちが、島を離れ、親元を離れ、遠くの高校の寮などに入って一人暮らしをするというのは、相当精神的に堪えたことでしょう。

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 しかしその「島を離れる」という事態が、子どもたちだけでなく、島全体の大人に降りかかったのが、1974(S49)年の閉山でした。そもそも、この軍艦島で働いていたのは、どういった人たちだったのか。労働はどういうものだったのか。次回は、暮らしぶりやノスタルジーとはうって変わって、労働者としての軍艦島を、船に乗って軍艦島を周遊しながら考えてみたいと思います。

 次回「第3回」につづきます。

関連リンク

やまさ海運

取材協力

KAZ Communications

端島<軍艦島>(長崎・長崎市)


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