NAGOYA REPORT 万博便乗!新名所特集

万博のメイン会場を逃したせとものの瀬戸が万博に賭ける

記事公開日:2005年4月2日 更新日:

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▲瀬戸市の中心部。万博に向けて大きく変貌した。

 名古屋ローカルではもちろんのこと、3月25日の開幕以降は全国ネットのテレビ番組でもよく取り上げられるようになった「愛・地球博」。しかし取り上げられるのはいつもメイン会場である長久手会場ばかり。もうひとつの瀬戸会場は、パビリオンが政府系ものと市民参加ものもだけで企業パビリオンはなく、地味なためかなかなか注目が集まりません。

 この「愛・地球博」が当初はこの瀬戸会場のある海上(かいしょ)の森一帯で開かれる予定だったお話は以前しました。そのため瀬戸市は当初から誘致活動にかなり力を入れてきました。

瀬戸といっても瀬戸内海じゃないよ

 ところで「瀬戸」という地名を聞いてどこを思い浮かべられるでしょうか。名古屋近郊の方であれば、真っ先にこの「愛知県瀬戸市」と答えていただけると思うのですが、他の多くの方は「瀬戸内海」、「瀬戸内」の瀬戸を思い浮かべられるのではないでしょうか。しかしそういった方でも「せともの」という言葉を知らない人はいないと思います。

 「せともの」を陶磁器の別名と思われている方も多いと思いますが、実はこの言葉の語源は「瀬戸で作られた物」なのです。瀬戸市は1000から1300年の歴史を持つ陶磁器の街です。

「瀬戸で行かんでどこへ行く」(瀬戸へ行かないでどこへ行くっていうの?)

 この言葉は、近年瀬戸市の観光キャンペーンで使われていたものですが、ここで言う「行く」は、本来は観光へ行くという意味ではありません。まだトヨタの自動車も織機も、名古屋の工業も産声を上げる前のはるか昔、瀬戸は陶磁器産業で繁栄していました。誰でも瀬戸へ行けば陶土の採掘や、窯焼きなど何かしら仕事にありつける、この言葉を合言葉に全国から瀬戸へと人が集まったのです。かつて瀬戸はそんな街でした。

陶器で栄えた瀬戸は一度衰退するが

 瀬戸には古くから良質な粘土があり、焼き物がいつから作られていたのかは実ははっきりしません。縄文時代の土器も作られていた形跡がありますし、 1300年前、1000年前といろんな説があります。様々な伝説がありますが、瀬戸の陶器を一躍有名にした加藤藤四郎という人物を瀬戸では陶祖と呼び、現在の瀬戸焼の始まりと捉えています。

 鎌倉時代、加藤藤四郎は宋(現在の中国)で焼き物を学び日本へと帰ってきました。藤四郎は中国と同じように良質な粘土は無いかと日本中を探し歩き、瀬戸でついにそれを見つけるのです。良質な粘土と藤四郎の優れた技術によって瀬戸の陶器は一躍有名になります。

 この藤四郎が作ったと伝えられる陶製の狛犬が、深川神社の宝物殿に今でも収蔵されており国の重要文化財となっています。そしてすぐ隣にある陶彦神社は藤四郎を祀るものです。毎年4月の第3土日には陶彦神社の祭礼として陶祖まつりが開かれ、藤四郎の遺志を継いだ陶芸家達による作品が露店に並べられます。

 しかし瀬戸の陶器産業は、江戸時代中期から後期にかけて次第に下火になっていきます。陶器よりも九州の有田焼など丈夫な磁器が広く使われるようになるのです。瀬戸で陶工の子として生まれた加藤民吉は、次男であったために陶工を継げず、また父親も陶器では食べていくことができずに、二人とも名古屋の熱田前新田干拓事業で鍬を握っていました。

 そのへっぴり腰を見た熱田奉行兼船奉行・津金文左衛門に事情を尋ねられた民吉たちは、瀬戸の陶器産業の実態を訴えます。すると文左衛門は民吉にお金を渡し、九州で磁器の修行をさせます。そして3年の時を経て磁器の技術を身につけた民吉は瀬戸に戻り、丈夫な磁器の製造を始めます。

 瀬戸は江戸と大坂の間にあるという立地条件の良さから、九州の磁器を差し置いて瀬戸の磁器はたちまち江戸、京、大坂で人気となり尾張藩の御用達にもなったのです。

 加藤藤四郎の陶祖に対して、加藤民吉は磁祖と呼ばれています。窯神神社は民吉を祀る神社で、祭礼として毎年9月の第2土日に開かれる「せともの祭り」では、瀬戸川の河畔にある道路一帯を通行止めにして、多くの露店が並び大廉売市が開かれます。毎年全国から 50万人もの人が集まり大変賑わいます。

 しかし国道を通行止にするという祭りの形式に無理があると、愛知県警が2005(H17)年以降は通行止を認めない方針を示しており、今後の動向が注目されています。こうして衰退を乗り越え発展してきた瀬戸の陶磁器産業。大正、昭和に入ると陶磁器製の人形、いわゆるノベルティが人気となります。

再び瀬戸は冬の時代へ、そこに一筋の光

 世の中は大量生産時代に入り、芸術性を求めるノベルティは別にして、皿や鉢、花器などは中国製の安いものに押されるようになります。時は流れ100円ショップで中国製の土鍋が買えるようになるなど、瀬戸の陶磁器産業は再び冬の時代を迎えます。陶器の工場は次第に更地へと姿を変え、今、瀬戸の街じゅうにマンションが建設されています。

 このままでは瀬戸はただの名古屋のベッドタウンになってしまいます。瀬戸の周辺は同じように良質な粘土が出ることから、お隣の岐阜県多治見市や土岐市でも美濃焼と呼ばれる焼き物が作られています。多治見や土岐も同じように地場産業の衰退という問題を抱えていました。しかし美濃焼を観光資源にしようと活動をし始め、散策路や道の駅としての物産販売所などを整備し、それなりに息を吹き返しつつありました。

 対して瀬戸はなかなかそういったことに力を入れることができずにいました。せとものの瀬戸という知名度がありながら、「瀬戸へ観光に行きたいけど何かある?」と聞かれても、地元の私でさえ思い当たるところがありませんでした。せいぜい県の陶磁器資料館程度で、資料館は瀬戸の街から遠く離れた山の中にあり、電車で行けるような場所ではなく不便でした。

 瀬戸が頭を抱えこんでしまっていたそんな時、降って沸いたのが瀬戸での万博開催だったのです。万博が開催されれば世界中から瀬戸に人が集まる。国からの補助もあるだろうからインフラ整備もできる、観光施設も作れる、地元は一気に活気づきました。

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▲当初の万博予定地海上の森。実現していたら森は無くなっていた。

逃がした魚は大きかったけれど

 その後、瀬戸でオオタカの巣が発見され、万博が長久手にかっさわれてしまったのは以前瀬戸会場の紹介でお話したとおりです。瀬戸を一周する環状線建設計画は流れ、東名高速から瀬戸へと支線を建設する計画は長久手までに縮小され、海上の森ニュータウン計画も消滅してしまいましたが、瀬戸はこの愛・地球博にかけました。

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▲絵に描いた餅をオオタカに食べられ、棚に置いておいた牡丹餅を長久手町に食べられ...。

 陶土や珪砂が瀬戸では採掘されるので、たくさんのトラックが轟音を響かせて走るにもかかわらず、市の中心部の歩道は未整備で、観光以前に普段の生活にも支障をきたしていました。尾張瀬戸の駅前には小さな無人観光案内所はあったものの、到底観光地と呼べるようなものではなく、どこへ行ったら瀬戸の陶磁器産業に触れることができるのかよくわかりませんでした。

 しかし、この愛・地球博をきっかけに瀬戸は大きく変わりました。「せとやきもの世界大交流」と大きなキャッチフレーズを掲げ、瀬戸を一大観光地にしようと地元が立ち上がったのです。

 瀬戸の駅前を思い切って道路拡張することにし、駅ビルを建設、そして観光案内施設を瀬戸市民会館跡地に建てることになりました。しかし同時に失ったものもあります。大正時代からずっと現役だった尾張瀬戸駅の駅舎は失われ、日本で2つしかなかったバスの駅、国鉄(JR)記念橋駅も姿を消すことになりました。道路拡張といっても瀬戸の古い街並みをそのまま残さなければ観光地化の意味がありません。

 そこで教科書にも載っている1905(M 38)年に作られた丸一国府商店の建物は、一度バラして組み立てるという偉業を成し遂げました。折りしも陶芸はブームとなりつつあり、陶芸やガラス体験ができる工房を瀬戸市内に40ヶ所以上設けました。実は瀬戸は陶土だけでなく、ガラス原料の採掘量も日本一なのです。

 瀬戸の陶磁器産業に興味を持っていただけましたでしょうか。愛・地球博にお越しの際はぜひ瀬戸市にもお立ちよりください。「でも、万博でただでさえ疲れるのに、瀬戸にわざわざ寄るのもなあ...。」とお思いの方ここで朗報です。実は瀬戸に立ち寄ると、万博への交通費がかなりお得になる裏技があるのです。それは瀬戸の観光地紹介とともに次回お伝えします。


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