NAGOYA REPORT 名古屋の教育

とにかく管理すべてを管理の管理教育-名古屋の教育2

記事公開日:2005年6月18日 更新日:

 中学生時代、心底馬鹿馬鹿しいと思っていた時間があります。その時間は月に1回やってきます。授業やホームルームを中止して、学年の生徒全員がグランドか体育館に並ばされます。教師の手には定規。一体何をするというのか。それは毎月恒例の服装・頭髪検査です。

かなりの時間を費やした身だしなみ検査

 これは私が中学生時代の頃の話ですので、今から十数年前のお話です。今現在はそんなことはやっていないと信じたいものです。まずは服装。男子はワイシャツの下に肌着を着ているのですが、そこ色柄物などもってのほか。胸にワンポイントマークがあったりしてもいけません。白いランニングかTシャツでなければなりません。

 そしてズボン。もちろんこれも標準でなければなりません。さらに上着の丈もチェックされます。女子はもっと厳しく、スカートのヒダの幅から、ヒザ下の丈までチェックされます。スカートや足に定規を当てる先生のことをちょっとうらやましく思った思春期です。今考えると、絶対それを楽しみにしていた先生もいるはず。もちろん、ピアスなんてものは論外です。

 服装検査で指摘を受けた場合は、数日の間に直して教師に再度検査をしてもらうことになります。服装はそれで済んだのですが頭髪はそうは行きません。即修正です。

 その頭髪検査についてです。茶色に髪を染めてはいけないなどというのは当然のことで、頭髪検査では髪の毛の長さ、耳が出ているかどうか、襟足が刈り上げてあるかどうかがチェックされました。私は尾張地区の中学校に通っていたので、これでも比較的緩い方でした。三河地区ともなると全員丸刈りという厳しい校則が生徒達の前に立ちはだかっていました。

 女子の場合もやはり色はもちろんのこと、パーマが天然であるかどうか、前髪の長さなどをチェックされますが、私の通っていた中学校では比較的女子には寛容だった記憶があります。服装が女子に厳しかった分のバーターでしょうか。では頭髪検査でひっかかった場合はどうなるのかと言いますと...。

 最もいけないのは茶髪です。染めている男子生徒は決まって技術教室の横の空き地へと連れて行かれました。そして首に大きな布を巻かれます。教師の手にはバリカン。そうです、その場でカットです。さすがに女子の髪が教師の手によって切られているというシーンを見かけることはありませんでしたけど、影では行われていたかもしれませんね。

 わざわざ人目につく屋外の空き地でバリカンを入れるのには、見せしめの意味も含んでいたのでしょう。

頭髪・服装検査の根底にあるもの

 とまあ月に1回、時間をかけて一人一人の生徒をチェックしていくわけです。当時は被害者意識が強かったので、ただ馬鹿馬鹿しいと思っていただけなのですが、今振り返ると教師の手間も相当かかっていたのではないかと思います。結構大変な作業ですよね。検査と修正。なぜそこまで服装と頭髪を厳しくチェックするのか。

 これは愛知県の「管理教育」と呼ばれる教育方針によるものでした。管理教育とは生徒を徹底的に一元的な管理して教育を行うもので、日本では戦前の教育を主に指すのですが、戦後も一部の地域では管理教育が行われてきました。高度経済成長期によく言われたのは「東の千葉、西は愛知の管理教育」です。千葉県と愛知県が特に管理教育県だったのです。

 管理教育では画一的に子どもが育てられるので、個性は埋没させられます。制服が導入されている時点である程度画一化されているにもかかわらず、さらに細かな点をチェックし、地域によっては丸坊主を強制するなど、子どもを全く同じように育て上げ、少しでもその道から外れているものには「落ちこぼれ」というレッテルを貼り、徹底的に元の道に戻させようとしました。

 その手段として、スパルタ教育、体罰が使われたわけです。教育に子どもの個性などというものは必要無いと考えられていました。

親と一緒ではない時は全て管理

 管理するのは生徒の見た目だけではありません。子どもたちの行動にも制限を加えました。これは前回も取り上げましたが、そのひとつが小学校における分団、通学班による集団登校です。これは、例えば1丁目の1番地から50番地をA班、51番地から100番地をB班といった具合に班分けを行い、そこに住む 1年生から6年生が集団で登校をするというものです。

 そのなかの最高学年の児童のひとりが班長となり、責任をもって全員を学校に連れて行くわけです。休む場合や遅刻をする場合、親は学校に連絡するとともに班長の子にもそのことを伝えなくてはならないのです。そのままだと全員が遅刻してしまいます。

 児童は旗をもった班長を先頭に、まるで行進するかのように学校へと歩いていきます。こうすることで寝坊による遅刻を減らすとともに、学年を超えて連帯感を持たせ縦の繋がりができるという副産物もありましたが、根本的な考え方は「管理」です。それを象徴していたのが、班ごとに通学路が厳密に決められていた点です。寄り道は許されません。

 道をどうしても変えたいという場合は、理由を沿えて申請をして認められなければなりませんでした。ただ、帰りは全学年が同じ時刻に帰るわけではないのでバラバラでしたが、やはり通学路を外れることは許されませんでした。

 行動範囲の制限は、何も学校の行き帰りだけではありませんでした。休日、子どもだけでゲームセンターなどに出入りをすることは許されませんでした。先生たちが抜き打ちでチェックをしていました。でもここまでならよくある話かもしれません。特に三河地区ではさらに厳しい規則がありました。

 その規則とは、学校が終わった後や休日を問わず学区、つまり自分の通う小中学校のエリア外に出てはいけないというものです。その場合は必ず親と同伴でなければならないのです。例えば、家の近くにスーパーがあったとしてもそれが学区外であったら親同伴で行かなければならないのです。

 その規則があった地域で育った友人たちに話を聞いてみたところ、夏休みに学区外に虫を取りに行ったところを先生に見つかりこっぴどく叱られただとか、夏休みが終わって自由研究を提出したら、その研究内容が学区外の池の観察だったために、内容を一切見てもくれずにただ叱られた、といった話を聞きました。

 さらに外出時は必ず学校指定のジャージでなければいけないなど、驚くべき管理を行っていた学校もあったのです。とにかく規則を守れない奴やつは何をやっても駄目なのです。その規則が真っ当ならまだ納得できるのですが、これは度を越えています。

イラスト
▲今ってブルマって無いんですってね...。まあ確かに、思春期の男子にあのブルマを見せるのは、まるで犬のおあずけ状態。

男子はあの頃の方が良かったかも!?

 ジャージで思い出しましたが、こんな規則のあった学校もありました。私の学校には無かったのですが、女子はスカートの中にジャージのズボンを必ず履かなければならないだとか、修学旅行ではずっとジャージを着用しなければならないというものです。女の子がスカートの下にジャージのズボンを履いている姿は、ものすごく田舎を感じさせるのですが、この規則の意図は一体何なのでしょうか。

 自転車通学とかで万が一下着が見えてしまうことを避け、女の子の身を守るということでしょうか。そして修学旅行。私の学校の場合は制服だったので良かったのですが、確かにジャージで東京見物をしている学校がありました。これでは田舎丸出しですし、中学の修学旅行で東京へ初めて行くという人も多いはずですので、最初から東京に対して劣等感を植え付けられてしまいます。

 そして体育の授業でのジャージ着用禁止。冬でも男子はシャツと短パン、女子はシャツとブルマでなければならないというものです。この規則は私の学校にもありました。「根性」という考え方が根底にあったのでしょうね。せっかくジャージが支給されているのに、冬の外での授業で着てはいけないとは論理的におかしいです。

 特に当時の女子のブルマは、はっきり言って下着と同じようなもので、足は丸出しでしたからかなり寒かったでしょうし、恥ずかしいという思いもあったはずです。

 でもこの体育の授業でジャージ着用禁止という規則だけは、冬場どんなに寒くて辛くても、男子は誰一人文句を言いませんでした。体育の授業は男女別々だったのですけど、女子の姿は目に入りましたからね。運動会はパラダイスでした。それを喜んでいた先生も絶対いただろうなぁ。

読んでおきたい一冊

 当時、管理教育の真っ只中で生徒として戦った内藤朝雄さんは「いわゆる管理教育」という呼び方をされています。管理教育と言うよりは全体主義教育と呼ぶほうがしっくりくるとのこと。ただ管理するだけではなく、あえてそのルールを曖昧なままにし、根底から順応させることが真の「いわゆる管理教育」の姿であり、正しいことが必ずしも社会で通用するわけじゃないから、学校はその練習の場で、教師の言うことに完全に順応しろ、というのが実態だったようです。そのあたりのことも、この本で理解できます。


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