03.西区 名古屋を歩こう

何もかも高いアーバンライン

記事公開日:2004年4月10日 更新日:

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治水工事の必要性を唱えつづけた-水埜士惇君治水碑

 新川の堤防を1.5キロ程歩くと、西区の東端である比良地区に出ます。ここから東側は北区になります。比良地区は南の庄内川と北の新川に挟まれた場所で、特に昔から水害に悩まされてきました。新川に架かる比良新橋を北に渡ると、西春日井郡師勝町となり、
そこに治水碑があります。

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▲比良新橋から見た新川です。今も治水工事は続きます。

 比良新橋北の交差点を川沿いに東へ少し歩くと、師勝町指定文化財になっている水埜士惇君治水碑があります。江戸時代、このあたりはたびたび洪水によって甚大な被害が発生していました。時の尾張藩主宗睦は、勘定奉行水野千之右衛門ら4人に新川の治水工事を命じました。その工事は1784(天明4)年に起工され、3年後に完成しました。しかし、その工事には予算を甚だしく越えた40万両というお金を使ってしまい、千之右衛門は普請奉行から馬廻組に降職、さらに謹慎処分となってしまいます。しかし千之右衛門は、新川工事の更なる必要性を痛感していて、謹慎中にもかかわらず、治水などの陳情書を決死の覚悟で藩に訴え続けたのでした。その後実際に洪水は減り、功績をたたえ1819(文政2)年にこの碑が建てられました。しかし、現在もまだ新川の治水工事は完璧とは言えず、現在も新川流域住民の生活を守るための工事が続けられています。

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▲師勝町にある水埜士惇君治水碑。正論を唱え続ける信念見習わねば。

かつては豊作の時だけ山車が引かれた-六所神社・西定寺

 新川の南側へと戻ります。南側の堤防道路はかなり細いのですが、名古屋市の北端ということもあってか、市バスの路線となっていて大きなバスが通り過ぎていきます。この時は治水工事のため車両通行止となっていました。比良新橋から南へ歩きます。直進すると商店や銀行がある比良の街へと出ます。そこを斜め左に歩いていくと六所神社があります。六所神社は6人の神を祀っています。毎年10月中旬に行われる祭礼では江戸後期から伝わる山車が2台繰り出します。かつては田園地帯であったため、豊作のときのみ山車が出ていたようですが、近年は山車が出る年が限られているようです。

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▲こんな堤防道路を大きなバスが走ります。
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▲六所神社です。かつては豊作を祈願しました。
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▲山車が繰り出す時に行ってみたいものです。

 六所神社から東へ歩いていくと、浄土宗金清山西定寺があります。この日はお墓参りに家族連れが来ていました。名古屋市内は、戦後墓地の移転集中を行っているためにお寺にもお墓があまり無いのですが、このあたりは戦後しばらくたってから名古屋市内に編入されているので、今もお寺にお墓が残っています。

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▲西定寺です。お墓が並んでいます。

信長に死後も仕えた男・佐々成政-光通寺・比良城址

 西定寺周辺は住宅街ですが、そこから南へ行くと企業が並んでいます。大洋機工の南側にあるのが曹洞宗光通寺です。ここにはかつて、佐々成政の居城・比良城がありました。成政は信長の臣で、1536(天文5)年にこの城で生まれています。成政は1573(天正元)年の朝倉攻めや、1575(天正3)年の長篠の役などの功績が認められ、越前五分市・小丸の城主になったため、この比良城は廃城となりました。その後成政は富山城主となるものの、信長の死後秀吉に対抗し攻められ降伏。肥後へと流されてしまいます。

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▲こちらは光通寺。かつて佐々成政の居城・比良城がありました。
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▲光通寺にはたくさんの観音さま。

 景色はだんだん殺風景になっていきます。工場や倉庫が並び、南へ歩くと国道302号が東西に走っています。すると空き地がポツポツと増え、建物がまばらとなります。人も全く歩いていない寂しいところに突如、駅が現れました。

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▲高架の上にある城北線・比良駅です。

次の列車は1時間後・乗れたとしても...-城北線比良駅

 その駅はJR東海の子会社、東海交通事業(TKJ)城北線の比良駅です。城北線。私には全く馴染みがありません。全線高架の複線ですが、並行する国道302号を車で走っていても、ごくたまに1両の電車を見かける程度です。駅の時刻表を見ると、1日の運行は平日26往復です。乗ってみようかとも思ったのですが、次の電車が来るまで50分もあります...。名古屋市内にこんな路線があるとは...一体どういう経緯で開設されたのでしょうか。

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▲時刻表。スペースが余ったのか、全ての駅の時刻が記されています。

 時代はJRがまだ国鉄だった頃に遡ります。この城北線、当初は国鉄瀬戸線として計画されたものだったのです。ところで、JRの中央線は岐阜県の多治見から春日井を通って名古屋市内に接続されています。中央線は当初、多治見から瀬戸市を通る予定でした。しかし、陶磁器の産地である瀬戸の住民は、電車の振動で陶器が割れるといった理由から路線の変更を要望、国鉄中央線は瀬戸を通らないこととなります。

 しかし、時は流れ瀬戸市にも国鉄を通して欲しいという声と、国鉄の名古屋環状路線計画が重なり、国鉄岡多線と瀬戸線が1962(S37)年に計画されます。岡多線は岡崎で東海道本線、そして多治見で中央線と繋がり、名古屋圏を大きくぐるっと囲む環状を実現できる路線となる予定でした。そして瀬戸線は、瀬戸で岡多線から分岐して春日井の高蔵寺へと抜け、勝川、枇杷島を通って稲沢へと抜けるものでした。

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▲駅に人の姿は...ありませんでした。

 1964(S39)年に工事は開始されます。しかし1986(S61)年国鉄改革法が成立し、国鉄としての開業は凍結されます。既に岡多線の岡崎・瀬戸間と、瀬戸線の瀬戸・高蔵寺間、勝川・小田井間、小田井・枇杷島間がほぼ完成していました。このうち、岡多線と瀬戸線の瀬戸・高蔵寺間は県に第3セクター化を打診し、愛知環状鉄道として1987(S62)年に開通。瀬戸線の勝川・枇杷島間についてはJR東海が新規路線として開業することとしました。そして1991(H3)年に勝川・尾張星の宮間が、1993(H5)年には全線が開業しています。

 JR東海は、なぜ子会社にこの路線を運行させているのでしょうか、全線高架工事には莫大なお金がかかっており、JR東海の運賃体系ではどう考えても建設費の償還ができる見込みが立たなかったのです。そのため、JRに比べると料金体系がかなり高くなっています。ちなみに、この比良から枇杷島までは10分6.7Kmですが、料金は370円です。ただ...その料金問題は表面的なもので、背後にはもっといろいろあるようですが、それはまた別の機会に。

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▲国道の交差点にある案内看板。ここから600mも歩かなければいけません。

 さらに料金が高いだけでなく、既存路線と乗り換えがスムーズにできないのです。既存路線の駅と、城北線の駅が一体化しているのは枇杷島駅のみです。将来的に勝川駅はJRと一体化される予定があるものの、現在はJRとの乗り換えに500mも歩かなくてはなりません。これは他の駅も同様で、小田井駅は地下鉄・名鉄上小田井駅と400m離れていますし、味美駅に至っては名鉄味美駅まで800mも歩かなくてはいけません。さらには、全線高架のために駅によっては4階の高さまで登らなくてはならないのです。

 案の定、1時間に1本か2本というペースでありながら、いつもガラガラだそうです。その上料金も高くては...。私はここから一度帰宅するつもりでしたが、市バスに乗って名古屋駅へ出ることにしました。バスですので時間は若干かかりますが、市バスの料金は200円均一ですから...。時間がかかるといっても、場合によっては城北線を待っている間に、バスは名古屋駅に着いてしまいます。

 料金も高く、駅の位置も高い、名古屋北部のアーバンライン城北線。将来は多難です。ただ私は利用価値を見出すことに成功しました。駅はかなり高い位置にあるので、展望台として、名古屋市内を望むには抜群のロケーションです。無人駅は、入場料も要りませんからね。あ、これでは展望台として利用しても、城北線にとって何もプラスにならないか...。


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