16.守山区 名古屋を歩こう

勘違いでその時歴史は動いた

記事公開日:2006年10月16日

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新旧の分岐点に今も灯篭が-瀬戸街道・天王社

 守山図書館前から瀬戸街道を西へと歩きます。町北交差点あたりには古くからの個人商店や町工場が見受けられますが、都心部への利便性の高さからか少しずつマンションや駐車場が増えつつあり街の風景は変わりつつあります。しかし逆にずっと前から変わらないものも多く残されています。町北交差点から200メートルほど歩くと、道路の北側には天王社があります。鳥居には昭和二年三月建立とあります。そしてその先、どんどん庵がある角は昔の瀬戸街道と今の瀬戸街道の分岐点となっていて、そこに小さなお社と灯篭があり、街道を見守っています。しかし周辺は次第に開発が進んでおり、刻一刻と風景は変わっています。

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▲瀬戸街道を西へ。マンションなども見られるように。
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▲住宅街のなかにある天王社。瀬戸街道沿い。
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▲右が現在の瀬戸街道、左がかつての瀬戸街道。

こんもりと古墳の上にある神社-白山神社

 その角を斜めに北東へ、旧瀬戸街道へと入っていきますと左手に守山紙器の工場があり、そこを右に曲がって少し歩くと1699(元禄12)年創建の誓願寺があります。すると何やらおばさんたちの声が聞こえてきます。それは反対側、守山紙器の工場の向こう側、小さな森からです。行ってみます。守山紙器の西側には、縦に細長い神社があります。白山神社です。小さな森に見えたのは神社の境内にある木々でした。白山神社の鳥居の内側には守山ふれあい会館があり、そこでおばさんたちが卓球をしています。聞こえてきたのはその声でした。

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▲天王社の北、1699(元禄12)年創建の誓願寺。
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▲参道前に守山ふれあい会館がある白山神社。

 白山神社は菊理媛命を祭神として、養老年間(717-723)に加賀の国から勧請されたと伝えられており、前方後円墳の古墳上に鎮座しています。その後大地震や大洪水により被害を受けて一時は廃れてしまうのですが、小幡領主山田次郎重忠が中興し、大永寺領主丘座伊勢守、松平清康が再興し、1555(弘治元)年3月に守山城主織田信次が社殿を建立したとのことから、武将の崇敬が厚かったとのことです。その後も明治時代には濃尾地震で被害を受け、1970(S45)年7月今度は不審火により社殿は焼失してしまい、現在の社殿は1971(S46)年10月に完成したものです。その後、崩壊箇所の土盛工事などを行い、檜の苗を1千本植え現在の静かな境内が形成されました。

 白山神社の社殿の下にある古墳は守山白山古墳と呼ばれています。手水舎のひしゃくは松坂屋と名古屋三越の寄贈となっており、広く信仰を集めていることがわかります。境内には津島神社、神明社などがあります。古墳の足元にある樫水神社から白山神社を見上げると、白山神社が古墳の上にあることがよくわかります。すると近くを飛んでいる鳥に石を落とされました。境内社も素通りせずにお参りしろ、ということかなと思い、しっかりとお参りしておきました。

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▲守山白山古墳の上に建つ白山神社。
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▲このあたりで鳥に石を落とされました。樫水神社。
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▲ふもとから社殿を見ると、古墳であることがわかります。

 さて、白山神社の由緒書きにはふたつ気になることが書いてありました。ひとつは、守山は慶長年間(1596-1615)まで「森山」と呼ばれていたということ。そしてもうひとつは守山城です。守山城は現在残っていませんが、その跡がここから200メートルほど西にあるとのことなので行ってみます。道沿いにはやはり新旧さまざまな住宅が立ち並ぶのですが、新しそうな家の一角に車庫のような場所があり、車庫にしては奥行きが無いな、と覗くとそこにはお地蔵さんがいました。家の塀と同化しており、家主さんの心遣いが伝わります。

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▲「守山」はかつて「森山」だったと書かれている由緒書き。
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▲まるで車庫のような、お地蔵さんのスペース。

勘違いで歴史が変わった...守山崩れ-守山城址

 しばらく歩くと、フェンスに囲まれたこんもりとした丘が現れます。守山城跡です。守山城には、勘違いが歴史を変えてしまったというエピソードが残されています。この守山城は築城された時代や創建者は不明ですが、1526(大永6)年には、連歌師の宗長が訪れ連歌の会が盛大に行われたという記録が残っています。さて、そのエピソードは「守山崩れ」と呼ばれており、それは1535(天文4)年の出来事です。徳川家康の祖父にあたる松平清康は、三河を統一すると今度は勢力を尾張に拡大しようと大軍を率いてこの守山にやってきます。松平家を戦国大名にまでのし上げたのは彼の力といわれるほどの武将でした。

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▲ただの裏山のように見える守山城跡。

 さてその頃、清康の家臣だった阿部定吉という人物が謀反を企んでいるという噂があり、定吉は尾張の戦国大名織田信秀と内通しているといわれていました。定吉本人も噂がたっていることを知っており、息子の弥七郎に誓書を渡していました。そこには、もし謀反の濡れ衣で自分が殺されたならば、殿にその誓書を見せて潔白を証明してほしいと書かれていました。

 清康軍は守山城へと攻め込んで布陣するとその夜中、馬が暴れだし大騒ぎとなりました。その騒ぎを聞いた弥七郎は、自分の父親が清康に謀反の疑いで殺されたものだと勘違いをし、清康を背後から襲って殺してしまいます。弥七郎はその場で成敗されます。名将清康を失った松平の軍は三河へと撤退します。清康はこの時24歳。跡取りの広忠はまだ9歳。松平家は弱体化し、逆に尾張の織田軍に攻められそうになり駿府の今川氏に助けを求めます。今川氏は人質を要求し、その際に広忠の息子竹千代(のちの徳川家康)が差し出されるのですが、竹千代は謀略によって織田信秀のもとに幽閉されてしまうのです。

 もし守山崩れが無かったら、三河を統一した松平清康が織田信秀と対決し、ひょっとしたら尾張は松平家の支配下になっていたかもしれません。そうなっていたら、歴史は大きく変わっていたことでしょう。愛知県の県庁所在地は岡崎だったかも。あ、そんな小さな違いだけでは済まないでしょうね。守山崩れの後、守山城は織田信長の叔父信次、弟の信時が城主となり、桶狭間の戦いで今川氏が滅ぶと廃城になったということです。

歴史の現場の横をゆっくり電車が走る-矢田川橋緑地

 守山城跡のすぐ南側には矢田川が流れ、川岸は矢田川橋緑地が整備されています。近くの矢田川橋を名鉄瀬戸線がゆっくりと走っていきます。まさかこの場所で、戦国時代の歴史を変える大きな出来事があったとはまるで思えません。なぜなら、城跡も全くといっていい程整備されておらず、守山城跡に守山崩れの説明は一切無いからです。歴史的な遺産がたくさんあるにもかかわらず、全く生かされていない名古屋を象徴する場所です。

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▲矢田川緑地が整備されている矢田川沿い。
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▲矢田川橋と名鉄瀬戸線の鉄橋。

現在も守山崩れの清康の位牌を安置-宝勝寺

 唯一歴史を語るのは、守山城跡に建つ宝勝寺です。このお寺は守山崩れで命を失った松平清康の霊を弔うために1637(寛永14)年に創建されたもので、現在も清康の位牌を安置しています。なお、白山神社の由緒書きにあったとおり、守山城は当時森山城で、守山崩れは森山崩れであったはずですが、ここでは守山という表記で統一させていただきました。ところで、守山は森山だったということが今回わかり、その名の次第に由来に少しずつ近づいてきました。

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▲守山崩れで命を失った松平清康の霊を弔う宝勝寺。

守山城址2010

 瀬戸街道は歩道の整備が進み、かなり道路の雰囲気は変わりましたが、今もあの灯篭とお社は同じ場所に残されています。町工場やお寺・神社が入り組む風景は残っているものの、取り囲むマンションや真新しいビルが少しずつ増えている印象があります。


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