11.港区 名古屋を歩こう

推理とロマンに最後のチャンス

記事公開日:2005年4月12日

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 百曲街道を東へと中川区地内を歩くと環状線にぶつかりますのでそのまま南下します。今回は競馬場の街、土古(どんこ)界隈を歩きます。

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 環状線は、このあたりでは小碓(こうす)通と呼ばれています。観音堂がたくさんあった港区小碓(おうす)と漢字は一緒ですが読み方が違います。わずか1キロしか離れていないので語源は一緒だと思われますが、時代の流れとともに読み方が変わったのでしょうか。その小碓通が小割通になると再び港区に入ります。すると左手には真四角の建物が現れます。愛知県武道館です。

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▲愛知県武道館。未経験者は出直して来ーい。

 愛知県武道館は総合武道場として1993(H5)年に開館したもので、約1600平方メートルを誇る大道場のほか、なぎなた、柔道、弓道、剣道それぞれ専用の競技場と、全6競技場を有しています。また宿泊室もあり合宿にも利用されています。一部時間帯では個人でも利用することができ、武道館の講師から指導を受けることもできますが、利用は経験者に限られています。未経験者が門を叩くと「腕を磨いて出直して来い」と追い返されるというわけです。さすが武道。

 愛知県武道館と、悪いものがあるはずがないことを社名が実証している、介護用品レンタルの「ヨイ株式会社」がある小割通1丁目交差点を左に曲がり、市営丸池荘と大西製作所、大西歯科を越えると右側に素盞鳴神社があります。素盞鳴神社は熱田新田の干拓が始まった1647(正保4)年に津島神社の分社として勧請したものです。素盞鳴神社からまっすぐ南に歩いていくと、右側に玄泉寺、左側に12・13番割観音堂があります。この観音堂は他のところと違い、観音像を直に見ることができます。

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▲悪いものは無い!社名に自信の表れ。
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▲熱田新田の干拓が始まったのと同時に勧請された素盞鳴神社。
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▲12・13番割観音さまは見ることができます。

 南に歩くと東海通とぶつかりますので、信号を渡り南へと向かいます。その信号のある道ではなく、一本東の細い道路を南に歩きます。細いといっても半端な細さではなく、軽自動車もすれ違えないほどです。しかし一方通行ではありません。名古屋っ子の巧みな運転テクニックを信じての無規制でしょう。一方通行の規制はありませんが、この土古界隈ならではの規制があります。それは「競馬開催日11時から17時車両通行止」です。この規制標識はこの後至る所で見ることになります。すれ違いもできない道路に車がどんどん入ってきたら、収拾つかなくなってしまいますものね。すると「本宮町食品センター」という懐かしい70年代テイストの建物がありました。中を覗くと古めかしい棚や牛乳用冷蔵庫に商品が陳列されていました。タイムスリップなお買物をどうぞお楽しみください。ここから先は、熱田新田の前に作られた新田ということで「熱田前新田」と名付けられた新田になります。

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▲競馬開催日でも地元の人はいいんだよね?
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▲昭和テイストな本宮町食品センター。

 熱田前新田は約349町歩の広大な新田で、1791(寛政3)年に津金文左衛門が干拓を行いました。細い道路の先には、熱田前新田開発に力を注いだ津金文左衛門の分骨と、山田秋衛が描いた肖像画を所蔵している浄専寺があります。津金文左衛門は飛島村にある長昌院で荼毘に付され中区の大光院に埋葬されていました。その後大光院の墓地が平和公園に移される際、この熱田前新田の地に分骨が収められたのです。津金文左衛門はこの熱田、飛島の新田開発のほか、「せとものの瀬戸」として知られる名古屋市の隣にある瀬戸市の陶磁器産業が、衰退の一途をたどっていた時に力添えをし、現在の陶磁器産業の基礎を築いた「磁器の祖」としても有名です。その陶磁器復興と新田開発には深いかかわり、それを示す碑が港区役所近くにあるので後ほど訪れます。

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▲津金文左衛門の分骨を収める浄専寺。
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▲やっぱりここはすれ違い運転困難...。

 しばらく歩くと、左に龍神社があります。このあたりには大きな川が無いにもかかわらず龍神社とは、と不思議に感じたのですが、この龍神社の龍は川ではなく海なのです。綿津見命を祀るこの龍神社は、1801(享和元)年に熱田前新田が完成した際に、埋め立ててしまったことについて海神の心を慰めるために建立された最初の神社で、「元の宮」とも呼ばれました。龍神社の脇にある、車は通れない細い通路を歩いていくと、つきあたりには鮮やかな色の遊具がある土古公園、そして左に曲がると如意寺があります。如意寺は熱田前新田が完成した後に、聖観音を本尊として奉安したのが始まりで「辻の観音」と呼ばれています。

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▲海神の心を慰める龍神社。
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▲土古公園には鮮やかな遊具、鮮やかな柵。明るさをアピール?
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▲辻の観音こと如意寺。

 環状線を挟んで、土古公園の西にあるのは土古競馬場とも呼ばれることのある名古屋競馬場です。入口は北側になります。地方競馬の名古屋競馬場では愛知県、名古屋市、豊明市が出資する愛知県競馬組合によってレースが開催されています。名古屋競馬場は1948(S23)年に名古屋競馬倶楽部が建設工事に着手したものの、その年の7月に民営競馬が禁止となり工事が中断、翌年愛知県と名古屋市が管理組合を設立し完成しました。長年この名古屋競馬場内に厩舎があり、岐阜県の笠松と同じように土古界隈では道路を馬が行き来していました。しかし名古屋市の都市化が進むと周辺住民からの移転の要望が強くなり、1977(S52)年に完成した海部郡弥富町の弥富トレーニングセンターへと厩舎は移転し、土古の環境は大きく変わりました。

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▲推理とロマンの名古屋競馬。
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▲やっぱり土古といえば競馬場。
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▲もちろん駐車場完備。

 1985(S60)年からは電話投票制度を開始し、テレビでレースを中継する体制を整えました。1990(H2)年には三重テレビでの実況中継が通年に渡って行われるようになり、場外馬券を広域で販売したり、ペアシートを設けるなど様々な努力を重ねるのですが、地方競馬離れが加速し運営は次第に厳しくなり、1992(H4)年にはとうとう赤字転落してしまいます。その後黒字転換することは無く、累積赤字は膨れる一方。三重テレビでの中継も資金面からできなくなり撤退。名古屋競馬の屋上にあった中継用パラボラアンテナも撤去されてしまいました。

 名古屋競馬への交通手段はバスしかなく、名古屋競馬場は無料バスを名古屋駅などから走らせていました。競馬開催日に地下鉄東海通駅前に行くと、片手にタバコ、片手に競馬新聞を持ったオヤジがずらっと並んでバスを待っている姿を見ることができました。赤字が続く名古屋競馬にとってこの交通問題の解決が急務でした。そこに助け舟がやってきます。そう第3セクターのあおなみ線です。あおなみ線は名古屋駅から金城ふ頭を結ぶ鉄道路線。この名古屋競馬場のすぐ横を通ります。もちろん競馬場の横には駅が設置されることとなり、駅名も地名の「土古」ではなく「名古屋競馬場」となりました。2004(H16)年10月のあおなみ線開通と同時に無料バスは廃止となり、年1,300万円かかっていた無料バスの運行費用が浮くことになりましたが、名古屋競馬の状況はそれで黒字転換するほどのものではありませんでした。

 このあおなみ線の開通で、どれだけ客足を伸ばすことができるか。それが名古屋競馬にとって最後のチャンスなのです。なぜ最後かといいますと、このあおなみ線による効果を見て、名古屋競馬場を存続するか廃止するかを決定するからです。このまま赤字を膨らませつづけるわけには行きません。公営ですからツケは税金に回ります。2005(H17)年から2007(H19)年までの3年間で好転するかどうかで、この土古競馬場の行方は決まります。

「推理とロマンの名古屋競馬」

 存続となるか廃止となってしまうか、あなたはどちらに賭けますか。


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