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3「茶屋新田」
新田干拓の苦労・そして完成後の苦労
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2004.8-10月 取材 |
戸田川緑地から東海通を東へと歩きます。知多交差点を過ぎると南側に茶屋新田が広が
ります。次の小西交差点を越えた南側に秋葉社があり、そしてその先には新川と庄内川が
流れ、日之出橋が架かっています。二つの川に挟まれた中洲は中川区下之一色町。しかし
その中洲も東海通の南側で急激に細くなり、港区南陽町大字七島新田となります。そのま
ま中洲は無くなってしまうかと思いきや、新しく架かった南陽大橋付近から再び太くなり
ます。最後には導流堤となり藤前干潟の先、フェリー埠頭付近まで延びています。そんな
中洲の東側は旧愛知郡小碓村となるので、旧南陽町の区域はこの庄内川の手前にある中洲
までとなります。

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▲日の出橋。右側の中州は中川区下之一色町。何も無いけど。 |  |
▲東海通沿いにある秋葉社。 |  |
▲秋葉社の南にある小賀須公園。 |
さて、先ほど秋葉社があった角を右折して南に歩くとつきあたり、その左側の細い道を
歩くと再びつきあたります。そこを東西に走る道路から南側が茶屋新田になります。この
道路は西福田新田と茶屋後新田をわけていた道でもあり、南陽神社から繋がっています。
旧南陽町地内は全て新田なのですが、完成した時期によって今も地名がわかれています。
今まで歩いてきた部分も含めて南陽町全体の干拓を振り返ってみます。

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▲ここから南(右)が茶屋新田。北(左)が福田新田。 |
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▲大きな碑がある南陽町郵便局。 |  |
▲新川堤防道路沿いでは3つのお社が川を見つめます。 |  |
▲茶屋新田の加護を願って建立された重正寺。 |
重正寺の南にある八幡社、東茶屋神明社も同じです。八幡社は完成間際の1663(寛文3)
年に工事の完成を祈って茶屋長以が勧請したものです。神明社は完成して数年後に農業の
守護神として天照大神を伊勢神宮から勧請し、祀ったものです。一時期この二つの神社は
ひとつになっていました。1815(文化12)年に洪水で堤防が決壊してしまい、八幡社は社殿が大破し
て流失してしまうのです。しかし1884(M17)年に崇敬者の熱望によって、八幡社は再び復
旧鎮座しています。そして1933(S8)年には五十年祭、1983(S59)年には百年祭が取り行わ
れました。この地域は今でも洪水の恐怖に晒されています。氏神さまが洪水に流されっぱ
なしの状態では、守ってくれるはずもありません。信仰が厚い理由も自ずと理解できます。

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▲東茶屋神明社は鳥居が青銅。 |  |
▲一度は流されてしまった八幡社。 |  |
▲1983(S59)年に行われた百年祭の記念碑。 |
神明社の300メートルほど南には七島新田があります。七島新田の入口にある寂光寺は、
七島の守護仏として三十番神を1790(寛政2)年に祀ったのが始まりで、1942(S17)年に現在
の寺号に改称しています。周囲は今も新田のままで、いくつかある懐かしい感じの倉庫な
どにはホーロー看板も多く残されています。遠く西の方角に見える市営西茶屋荘までは大
きな建物はありません。小学校と駄菓子屋さん。そして住宅がぽつぽつとある程度であと
は全て田んぼです。

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▲寂光寺から南は七島新田。 |  |
▲ライオンが蚊取り線香出してたの? |  |
▲田んぼのなかの駄菓子屋さんへ子どもが駆け込みます。 |
新田を歩く。ここは数百年前まで海だった場所です。しかも今のように重機どころか満
足に道具も無かった時代に、これだけの土地を人の力だけで埋め立てたのですから、それ
は難工事だったでしょうし、多くの犠牲の上に新田が成り立っているのだと史跡は語りか
けます。しかし先にも触れましたが、この茶屋新田の南側にある藤高、藤高前新田の先は
今も埋め立てられていません。その理由を探りに藤高前新田の南端まで歩いてみましょう。
南端まではまだここから3キロほどあります。ずーっと田んぼです。はぁ、田んぼばかり
では書くネタも無いのでひたすら歩きます。すると何か声が聞こえてきます。

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▲田んぼをひたすら歩いていきます。 |

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