11.港区 名古屋を歩こう

新田干拓の苦労・そして完成後の苦労

記事公開日:2005年4月12日 更新日:

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 戸田川緑地から東海通を東へと歩きます。知多交差点を過ぎると南側に茶屋新田が広がります。次の小西交差点を越えた南側に秋葉社があり、そしてその先には新川と庄内川が流れ、日之出橋が架かっています。二つの川に挟まれた中洲は中川区下之一色町。しかしその中洲も東海通の南側で急激に細くなり、港区南陽町大字七島新田となります。そのまま中洲は無くなってしまうかと思いきや、新しく架かった南陽大橋付近から再び太くなります。最後には導流堤となり藤前干潟の先、フェリー埠頭付近まで延びています。そんな中洲の東側は旧愛知郡小碓村となるので、旧南陽町の区域はこの庄内川の手前にある中洲までとなります。

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▲日の出橋。右側の中州は中川区下之一色町。何も無いけど。
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▲東海通沿いにある秋葉社。
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▲秋葉社の南にある小賀須公園。

 さて、先ほど秋葉社があった角を右折して南に歩くとつきあたり、その左側の細い道を歩くと再びつきあたります。そこを東西に走る道路から南側が茶屋新田になります。この道路は西福田新田と茶屋後新田をわけていた道でもあり、南陽神社から繋がっています。旧南陽町地内は全て新田なのですが、完成した時期によって今も地名がわかれています。今まで歩いてきた部分も含めて南陽町全体の干拓を振り返ってみます。

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▲ここから南(右)が茶屋新田。北(左)が福田新田。

 最初に完成したのは、新川と戸田川に挟まれたこの部分の道路から北側、福田新田です。1640(寛永17)年のことでした。次が西福田、その名のとおり福田新田の西側の部分で、戸田川の西側です。福田新田のわずか3年後である1643(寛永20)年に完成しています。その次がこの茶屋新田。現在は東茶屋、西茶屋となっている区域で1663(寛文3)年の完成です。次は福田新田と同じパターンで、茶屋新田の西側が14年後の1677(延宝5)年に西茶屋新田ではなく茶屋後新田として誕生しています。ここで干拓は一段落し、次に新田が完成するまで72年もかかっています。

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 72年の時を経て、1749(寛延2)年に完成したのが戸田川のさらに西側、福田前新田。その後、茶屋新田の東側の斜めに川が食い込んだ形になっていたところが1788(天明8)年に七島新田となり、茶屋新田、茶屋後新田の南側にそれぞれ藤高新田、小川新田が1797(寛政9)年に、藤高新田のさらに南側が藤高前新田として1822(文政5)年に完成し、旧南陽町の区域の埋め立てが完了したのです。福田新田の完成から藤高前新田の完成まで約180年。重機も何も無かった時代です。まさに人の手によって長い時間をかけてこの南陽町は作られた土地なのです。しかし、その藤高前新田から先は現在も埋め立てられていません。それには理由があります。茶屋新田の後に理由を探りに行ってみ
ます。

 では茶屋新田を歩きます。先ほどのつきあたりを左に曲がり、新川方向へと歩くと正福寺、大きな碑のある南陽町郵便局があります。郵便局の横にある重正寺は南側が山門のようなので南側にまわります。その前に新川に出てみます。川沿いの道路は歩道が無く堤防側に行くのは危険です。道路沿いにあるポンプ所のすぐ横には皇太神社、熱田神宮、津島神社を祀った小さな社があり川を見つめています。中洲には道路はあるようですが、草が生い茂り特に何かに利用されているわけではないようです。さて、歩いてきた道の一本南の道を戻ります。すると右手に先ほどの重正寺があります。ここにはかつて神堂のみがありました。茶屋新田は難工事を極め、その加護を願い茶屋長以が1656(明暦2)年に三十番神堂を建立しました。変わって、お寺は法輪寺として熱田鷲峰山の南に元和年間(1615-23)に竹腰善右衛門が開基し、日鷲上人が開山したもので、1748(延享5)年に重正寺と改め、1877(M10)年の移住指令により三十番神堂と併合されました。福田新田もそうでしたが、新田干拓の成功を願った当時の人の思いが形となっていて、新田の工事がいかに大変なものだったかがわかる痕跡が至る所に残されています。

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▲大きな碑がある南陽町郵便局。
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▲新川堤防道路沿いでは3つのお社が川を見つめます。
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▲茶屋新田の加護を願って建立された重正寺。

 重正寺の南にある八幡社、東茶屋神明社も同じです。八幡社は完成間際の1663(寛文3)年に工事の完成を祈って茶屋長以が勧請したものです。神明社は完成して数年後に農業の守護神として天照大神を伊勢神宮から勧請し、祀ったものです。一時期この二つの神社はひとつになっていました。1815(文化12)年に洪水で堤防が決壊してしまい、八幡社は社殿が大破して流失してしまうのです。しかし1884(M17)年に崇敬者の熱望によって、八幡社は再び復旧鎮座しています。そして1933(S8)年には五十年祭、1983(S59)年には百年祭が取り行われました。この地域は今でも洪水の恐怖に晒されています。氏神さまが洪水に流されっぱなしの状態では、守ってくれるはずもありません。信仰が厚い理由も自ずと理解できます。

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▲東茶屋神明社は鳥居が青銅。
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▲一度は流されてしまった八幡社。
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▲1983(S59)年に行われた百年祭の記念碑。

 神明社の300メートルほど南には七島新田があります。七島新田の入口にある寂光寺は、七島の守護仏として三十番神を1790(寛政2)年に祀ったのが始まりで、1942(S17)年に現在の寺号に改称しています。周囲は今も新田のままで、いくつかある懐かしい感じの倉庫などにはホーロー看板も多く残されています。遠く西の方角に見える市営西茶屋荘までは大きな建物はありません。小学校と駄菓子屋さん。そして住宅がぽつぽつとある程度であとは全て田んぼです。

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▲寂光寺から南は七島新田。
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▲ライオンが蚊取り線香出してたの?
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▲田んぼのなかの駄菓子屋さんへ子どもが駆け込みます。

 新田を歩く。ここは数百年前まで海だった場所です。しかも今のように重機どころか満足に道具も無かった時代に、これだけの土地を人の力だけで埋め立てたのですから、それは難工事だったでしょうし、多くの犠牲の上に新田が成り立っているのだと史跡は語りかけます。しかし先にも触れましたが、この茶屋新田の南側にある藤高、藤高前新田の先は今も埋め立てられていません。その理由を探りに藤高前新田の南端まで歩いてみましょう。南端まではまだここから3キロほどあります。ずーっと田んぼです。はぁ、田んぼばかりでは書くネタも無いのでひたすら歩きます。すると何か声が聞こえてきます。

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▲田んぼをひたすら歩いていきます。

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