11.港区 名古屋を歩こう

引水と水害の挟間で豊作を願う

記事公開日:2005年4月2日

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 名古屋市全16区のなかで最大面積を誇る港区。最も距離のある部分を測ると、東西は約9.9キロメートル、南北も約7.7キロメートルに渡って広がっています。南北方向には西から日光川、福田川、戸田川、新川、庄内川、荒子川、中川運河、堀川が流れ、東西方向には名四国道と呼ばれる国道23号線と東海通が貫きます。

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 港区は大きく4つに分類することができます。一つ目は、最初に名古屋市に編入された、熱田区と接する部分から稲永にかけての部分で、旧愛知郡小碓村の一部です。編入されたのは1907(M40)年のことです。二つ目が小碓、当知といった庄内川の手前にあった旧愛知郡小碓村の残る部分です。1921(T10)年に編入されました。そして三つ目は庄内川の西側にあった旧海部郡南陽町です。編入されたのは1955(S30)年で、現在も住所が南陽町のままになっているところが多々あります。変わって四つ目は埋立地。大江町や潮見町、空見町、金城ふ頭などです。

 ではそんな広大な港区を、西から東へとひたすら歩きます。港区の最西端、南陽町大字西福田字雁島へとバスで向かいます。地下鉄名港線東海通駅から市バスに乗ります。東海12系統河合小橋行きです。バスは競馬場のある土古、当知を越え庄内川、新川を渡り旧南陽町地内へと進みます。そして戸田川を越えると前方には三重県の御在所岳、竜ヶ岳といった鈴鹿山地の山並みが見え、東海通の両側には広大な田園地帯が広がります。どこか田舎に里帰りしたかのような風景ですが、今乗っているのは紛れもなく名古屋市交通局の市バスですし、港区役所南陽支所が目に入ります。名古屋市内というのも嘘のようですが、港区であることも忘れさせてくれます。東海通駅からバスに揺られること25分弱。河合小橋に到着です。

 河合小橋バス停は終点ですが、特に市バスの車庫があるわけではなく、バスが休憩できるスペースがわずかにとってあり、運転手はそこで折返し運転まで休憩します。終点とは言っても何か目的地のある終点ではなく、市営バスのため名古屋市境がここにあるからという理由の終点なので、この日終点まで乗っていたのは私ひとりでした。地元住民の方以外で唯一目的地となり得るものといえば服部家具センターくらいでしょうか。さすが嫁入り道具にはお金をかける名古屋。田んぼの中にドーンと巨大な家具店があるという、普通だったらやっていけるのかと心配をしてしまいそうな雰囲気ですが、名古屋では大丈夫です。服部家具センターにはブライダルドレスのレンタル店も併設されていました。家具店に結婚式衣装店が併設というのも名古屋ではそんなに珍しいことではありません。

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▲河合小橋バス停。運転手さんはしばし休憩。
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▲こんな田園地帯にデカい家具店。貸衣装店も併設。

 河合小橋はこのバス停から西へ500メートルほど歩いたところにあります。河合小橋は蟹江川に架かる橋で、橋自体は海部郡蟹江町になります。すぐ南では蟹江川と日光川が合流していて、水位を調整するための河口施設が目に入ります。河合小橋は「小橋」の名のとおり短く細く小さい橋で、名古屋市内では大動脈の東海通も、ここで名古屋市を一歩出ると、片側1車線のただの田舎道になります。周囲に広がる田園風景に加え、河合小橋交差点の歩行者用信号が青と赤の二段式のものではなく、黄色のある自動車用の信号を縦に置いた古いスタイルのもので、おまけにまわりに緑と白の枠がつけてありさらにそれの錆びが激しくノスタルジームード満点です。

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▲河合小橋から向こうは海部郡蟹江町。
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▲福田川は日光川と合流。
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▲いつの時代の歩行者用信号なのか...。

 河合小橋の手前を、左折してUターンするかのように歩いていくと、田んぼの一角にポツンとある福前神明社を見ながら歩き、福田川にかかる西福橋を渡ります。福田川を越えて右折し、川沿いに南へ歩いていくと左手に石垣が登場します。茶屋後神明社です。福田川の東側は茶屋後という新田で、1679(延宝7)年に茶屋長以が築堤成功に際し三十番神を氏神として祀りました。三十番神とは日本古来の神々で、ひと月三十日を交代で神々が見守るという考え方です。ところが明治になると神仏習合は許されず、伊勢神宮の分霊を勧請し神明社となりました。

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▲田んぼに囲まれた福前神明社。
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▲西福橋。この橋の道路が新田の境目。橋の南東が茶屋後新田。
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▲築堤完成を祀った茶屋後神明社。

 明治に入って変わったのはこの神明社だけではなく、茶屋後新田が関戸家の所有地となりました。ここは低湿地のために水害が多かったのですが、関戸家は排水機を設置するなど対策を施し、さらには1946(S21)年に自作農創設制度ができるよりも先に、小作人に田畑を安く分譲するなどしました。地元農家はその感謝の意を込めて関戸家頌徳碑をこの茶屋後神明社内に建立しました。情に厚い名古屋っ子の真髄がここにありました。

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▲茶屋後神明社の西側はすぐ福田川の堤防。
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▲茶屋後神明社の境内にある龍神社。
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▲太っ腹な関戸家頌徳碑。

 茶屋後神明社の西側の道を、道なりに南へ歩いていくと左手に吉田鉄工という工場があります。その反対側となる右側に延命地蔵尊があります。延命にご利益があるのにはわけがあります。この仏像は昭和区にある八事山興正寺を開山した天瑞円照和尚が1688(貞享5)年に彫った木造仏で、1763(宝暦13)年の暴風雨の際に流失してしまいました。その後村人が海岸にこの仏像が流れ着いているのを見つけ、ここに安置されたと言われています。暴風雨にも負けない延命地蔵、五穀豊穣のほか病気全快にもご利益があります。安置される際、二度と流されないようにと高さ3メートルのところに祀られたことから高地蔵とも呼ばれています。

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▲確かに高いところにある高地蔵。
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▲人が生死を繰り返す6つの世界にいる六地蔵。
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▲吉田さんだらけ。やっぱり土地柄かな。

 この先にある福田川の河口にも水位を調整する設備があります。やはり今も水害から地域を守るべく対策がとられています。港区に甚大な被害を与えた伊勢湾台風については後述します。では吉田鉄工の南側の道路を東へと歩きます。このあたりは吉田鉄工、吉田工機といった会社のほか、家の表札も吉田さんばかりです。さすが田園地帯です。吉田鉄工から二本目の道路を北方向へと曲がると、一見普通の家に見える阿弥陀寺があります。かつては浄土宗の開祖である法然のみを祀っていましたが、このあたりには浄土真宗の人が多かったことから、法然の門下であり浄土真宗の開祖である親鸞も祀っています。

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▲福田川の河口設備。この先に神社があるようだけれども通れません。
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▲施設が水位を調整しているために流れていないように見える福田川。
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▲浄土宗と浄土真宗を祀る阿弥陀寺。

 阿弥陀寺からしばらく歩いていくと、左側に南陽第三保育園があります。そこが茶屋後新田と西福田新田の境目で、西福田新田へと戻ることになります。保育園の北側に下中神明社と浄恩寺があります。下中神明社は1878(M11)年に五穀豊穣と村中安全を祈願して鎮座させたのですが、何度も大きな水害が発生し本殿が荒廃してしまいます。そして1913(T2)年に再び本殿を造営するのですが、今度は1959(S34)年の伊勢湾台風によって大きな被害を受け、1982(S57)年に現在の本殿、拝殿が造営完成しました。この神社の経緯を見るだけでも、この地域の苦労が伺えます。そして道路が急に、軽自動車1台しか通れないような細さになると浄恩寺があります。真宗大谷派で1643(寛永20)年もしくは1716(享保元)年に、中村区稲葉地城屋敷町にある広讃寺から分寺し建立されました。

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▲下中神明社の南側には小川が流れています。
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▲浄恩寺は下中神明社のすぐとなり。
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▲3ナンバーは通れないかも。

 浄恩寺を越えると東海通に出ます。東海通の北側もずっと田園が広がっているのですが、一見月極駐車場かと思えるようなスペースに、小さな小さな社を構える神社があります。西福田新田は干拓後不作が続きました。その後福田川を開削、戸田川も改修し水が田畑に行き渡るように工事を行い、今度こそは豊作をと祈願し祀られたものです。その名も御鍬神社。御鍬神社の社の横には供養塔が建てられています。現在は西福田小学校となっている場所に伊勢湾台風の頃まで火葬場がありました。この供養塔はそれを記念するものです。

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▲先ほどの細い部分を臨みます。確かに細くなる予告標識はあるけど...。
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▲一見、ただの駐車場かと思ってしまう御鍬神社。
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▲火葬場を記念する供養塔。

 西福田新田、そして茶屋後新田は昔から農民が水害に悩まされていたことから、五穀豊穣を願う信仰が厚く、多くの神社やお寺が建立されています。豊作のためには水が必要だけれども、それによって水害とも隣り合わせになってしまう。そのバランスを保つために古くから人々は知恵を絞り、神仏に祈りを捧げてきたのです。また今年も秋になると、頭を垂れた黄金の穂が田を彩ることでしょう。

 以上、今回の「明るい農村から」を終わります。


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