12.南区 名古屋を歩こう

結果を出せないとダメなんです

記事公開日:2005年6月21日

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 南区は真ん中に国道1号とJR東海道本線が走り、二分されているというのは以前お話しました。今回からは、その南区の東側を北から南へと歩きます。干拓事業によって生まれた土地であるため、海抜ゼロメートル地帯で平坦だった西側とは対照的に、東側には起伏があります。また、昔海岸だったことから貝塚や古墳など歴史的な遺物があり、さらにたくさんの街道が通っていて、街道沿いには見どころがたくさん。それらが瑞穂区、天白区から広がる住宅地の合間に入り組んでいます。まずは、かつて万葉集に歌われたほどの絶景を見ることができた景勝地のある呼続から歩きます。

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 名鉄名古屋本線は呼続駅の手前で高架が終わり、山崎川で川面スレスレまで下り、呼続駅からは地表を走ります。この山崎川が瑞穂区と南区の区境。呼続駅は南区の北端に位置します。呼続駅から山崎川を東に歩くと、瑞穂区妙音通編でご紹介した師長小橋と師長橋があります。その名はかつてこの地に左遷された藤原師長に由来するもので、妙音とは師長が演奏する琵琶の音色を指したものというお話をしました。この川辺は数ヶ月前にも歩きました。ということは、山崎川を東に歩くと新瑞橋に出るはずです。見えてきました、
ユニー新瑞店です。

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▲名鉄名古屋本線が山崎川からは地上に降ります。
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▲山崎川。左側が瑞穂区、右側は南区。
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▲あかのれんとユニーのサンテラス新瑞。

 ユニー新瑞店・サンテラス新瑞は新瑞橋のたもとにあり、周囲にはライバルになるショッピングセンターも無いため、古く比較的小さな店舗ではありますが、環状線の渋滞とも重なって、いつも駐車場入口が混雑しています。ところで、このユニーの正面には巨大な工場、住友電工名古屋製作所があったのですが、2004(H17)年6月に閉鎖されており、訪れたこの時はすでに操業が停止しひっそりとしていました。現在は解体され72000平方メートルの更地が生まれました。跡地に何ができるのでしょう。熱田区でも港区でも似たような事例を見てきましたが、今、名古屋で工場の跡地といったらショッピングセンターと相場は決まっています。ここはユニーが牙城を守るためにアピタを作るかと思いきや、イオン系のダイヤモンドシティが2007(H19)年度に進出を決めています。しかも映画館を併設した巨大なショッピングモールを計画しています。ユニーがどうなるかということよりも、環状線の渋滞がさらにすごいことになってしまうのでは、と気がかりです。ユニーとイオンの激しい戦いが予想されますが、開店すれば必ず結果は出ることでしょう。共存は無理
でしょうね。

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▲操業を停止した住友電工名古屋製作所。
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▲右奥に見えるユニーに比べると、左側、住友電工の敷地は巨大。

 ユニーから環状線を南へと歩きます。「新瑞橋の~くれいし人形~」というCMソングをご存知の方も多いと思います。その「くれいし人形」があるのですが、漢字で「暮石人形」とある看板を見ると、思わず「墓石人形」と見間違ってしまうのではないかと心配してしまいます。余計なお世話でしょうけど。そして、いつがお休みなのか気まぐれな「気まぐれ屋」のある歩道橋を西へと渡り、住友電工の工場跡地南側を名鉄名古屋本線方面へと戻ります。工場の南側は道路が細く圧迫感がある程の狭さなのですが、地元の慣れた車は猛スピードで走り抜けていきます。そんな細い道路には小さなお社があったり、「テレス紳士服」といった錆びたホーロー看板を掲げる木造トタン外壁の建物も見受けられ、下町感を醸し出しています。

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▲♪新瑞橋の暮石人形~。
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▲懐かしいホーロー看板たちとお社。
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▲住友電工南側の道路は圧迫感があります。

 その細い道路の先に、ぽっかりと小高い山が姿を表しました。南区の西側は見渡す限り平地でしたから、今までは見かけなかった光景です。すると道路の右側に、生い茂る草の中にお墓が無造作に置かれた空間があり目に止まりました。全く手入れされている様子は無く、入れないようにフェンスが張られています。案内看板を見ると、ここは熊野三社の墓地なのですが、閉鎖が決まっていて既にその期日を1年以上経過しています。残されているのは無縁仏ということでしょうか。最初は荒れた墓地の様子に怖さを感じましたが、その看板を見て寂しさを覚えました。

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▲ようやく住友電工の敷地が終わると。
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▲先に小高い山が現れます。
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▲閉鎖が決まっている墓地。お花が供えられているものも。

 さらに西へと進むと、道路は行き止まりになってしまいます。そこからは階段が先ほど見えた小高い山へと繋がっています。その階段からは名鉄名古屋本線の線路を下に見ることができます。丘の合間にある谷間を列車が通っていく。高架化が進んでいる名古屋市内では珍しい光景です。列車の通過する音を聞きながら階段を登っていくと、安泰寺があります。山崎城は1560(永禄3)年の桶狭間の戦いの後、織田家の重臣だった佐久間信盛が城主となりましたが、信盛は1580(天正8)年に信長から高野山に追放され、山崎城は廃城になっています。信盛はなぜ追放されてしまったのか。戦においてなかなか結果が出せなかったにも関わらず、茶会ばかりをしていたので信長の怒りに触れたと言われています。実力が無かったのか、根が優しい人だったのかはわかりませんが、結果を出せないと認められないのはいつの時代も変わりません。

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▲道路は行き止まりに見えますが、その先にこんな階段が。
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▲線路と山崎城址の間を登っていきます。
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▲山崎城址にある安泰寺。

 さて、この山崎城址からは名鉄名古屋本線を小さな跨線橋で越えることになるのですが、よく見ると線路はお城の横をえぐるように走っています。電車が通るからと、わざわざ深く地面を掘る理由はありません。実はここ、山崎城のお堀だったのです。お堀跡を電車が走っているのです。かつては名古屋城のお堀にも名鉄瀬戸線が走っていました。名鉄はお堀を活用するのが得意なようです。ここは永久に高架化は無理ですね。

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▲線路脇から見ると、かつてお城があったことがわかります。
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▲右側が城址。確かにお堀を通っています。
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▲急行碧南行きが南へと走っていきます。

 跨線橋を渡り、車で通るのは難しそうな細い道路をさらに歩きます。しばらくすると左手に神社らしき敷地が見えてきます。細い路地を入っていくと、ぱーっと神社の敷地が開けます。熊野三社です。そう、先ほど閉鎖が決まった墓地を管理している神社です。熊野三社は山崎城に佐久間信盛が城主としてやってきた永禄年間(1558-1569)に、その信盛が山崎城の守護神として祀ったもので、廃城となってからも信仰が厚く、1627(寛永4)年に村の守り神として現在地に再建されたものです。

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▲山崎城址から細い跨線橋を渡ります。
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▲細い路地が急に開けた先に熊野三社があります。

 熊野三社境内ではたまに市が開かれており、野菜などが並べられています。神社の朝市
で新鮮な野菜を買う。下町情緒が漂います。かつてこのあたりは川と海に四方を囲まれ、たくさんの大きな松が生い茂っていました。そのため遠くから見ると陸の浮島に見え「松巨嶋(まつこじま)」と呼ばれていました。白い砂浜に青い松というコントラストが見事だったそうで、「尾張恂行記」にも名所として記されています。熊野三社の境内には松が残されていて、そこには手洗石があります。手洗石には「松巨嶋」の文字と、「明和三年丙戌歳五月吉辰・願主三宅徳左衛門年定」と刻まれています。明和3年とは1766年です。

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▲西の鳥居近くで野菜などの市が開かれています。
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▲松巨嶋の面影を残す松。かつてはもっとたくさんあったのでしょう。

 熊野三社のすぐ西側には旧東海道が南北に走っています。松尾芭蕉もここを通り、「寝覚めの里よびつぎ」と呼続のことを書き記しています。かつて山崎の坂はもっと急で、山崎では多くの人が休息をとり立て場となっていました。熱田の宮の宿へ行き来する人で大変賑わい、宮の宿から渡し舟の出航を「船が出るぞ~」「船が出るぞ~」と、人から人へ呼びついだことから呼続となったと言われています。東海道沿いには地名の由来となった面白いお話がよく転がっていますが、この呼続の南にはさらにもっと有名な地名の由来となった場所があります。東海道を南へと歩きます。

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▲熊野三社西の鳥居前から、東海道山崎の坂を臨みます。


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