12.南区 名古屋を歩こう

星に狙われた街

記事公開日:2005年6月21日 更新日:

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 いよいよ南区も今回で最後です。名鉄本笠寺駅から線路沿いを南下します。途中で環状線が線路の下をくぐる他は、線路の脇を歩くことになります。本城中学校のあたりでは、線路と道路を細い柵が隔てているのみで、電車と追いかけっこなんていうドラマのワンシーンを真似ることができます。再三言っていますが、こういう景色は名古屋市内では珍しいのです。近い将来には高架になってしまうかもしれませんので、今のうちに追いかけっこをしておきましょう。

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▲踏切が開くのを待つ、自転車通学の学生。
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▲さあ、電車と競争だ。

 さて、その本城中学校から見て線路の反対側に、木が覆い繁る場所があります。このあたりで木が覆い繁っているのはもうお分かりですね。古墳と思われるものと神社です。ここは丘の上に神社が祀られているのではなく、丘の南側に七所神社と秋葉神社があります。七所神社は938(天慶元)年の創建と古く、その始まりは平将門が乱を起こした時に遡ります。その乱を鎮めるために、熱田神宮のお御輿を星崎に移して鎮圧を祈願しました。乱が収まった後、そこに氏神様として祀ったのが七所神社です。その後11世紀の中頃、現在地に移っています。そして七所神社の北側にある丘には、戦国時代に寺部城が山口盛重によって築城されました。現在は粕畠公園となっていて遺構はありません。このあたりも城が隣接しており、七所神社の東約200メートルには市場城、南へ500メートル行ったところ、現在の笠寺小学校の場所には星崎城がありました。旧東海道のこのあたりがいかに要衝であったかがよくわかります。

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▲平将門の乱を平定させるため...歴史だ。七所神社。
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▲七所神社の横にある秋葉神社。
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▲周囲は木々が覆い繁る。このあたりに寺部城があったのか。

 では旧東海道へと戻りましょう。笠寺観音から旧東海道を江戸方面に歩いていくと、道沿いに大きなエノキの木があります。まさに大木。これは名古屋市内で現存する唯一の一里塚です。一里塚とは徳川幕府が主要街道を整備した1604(慶長9)年、その主要街道に作られた塚です。36町を一里(約4キロ)と定め、江戸橋を起点として一里ごとに、道の両側にエノキやマツの木を植えた塚を築きました。旅人の目安としてだけではなく、荷物を運ぶ際の運賃計算の目安としても利用されました。名古屋市内にはかつて9ヶ所の一里塚があったと言われています。ここもかつては一対の塚で、南側にはムクノキが植えられていました。しかし南側の塚は大正時代に姿を消してしまいました。この一里塚は江戸橋から88番目の塚、つまり約352キロ。今も旧東海道に大きな存在感を示しています。芭蕉も武蔵もこの一里塚を見て東海道を歩いていたのか...と感慨深くエノキを眺めていたのですが、よく考えたら芭蕉や武蔵が歩いていた頃にはまだ一里塚はありませんでした。

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▲旧東海道、奥に大きな木が見えてきました。
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▲笠寺一里塚。土が盛り上げられています。
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▲反対側(江戸側)から。これなら遠くからでも目に止まります。

 旧東海道はこの先、中央線変移区間となります。道路が細い割に交通量が多いため、時間によって混む方向の車線を増やしているのです。その区間の手前、赤坪町交差点を右折します。そしてスーパーヤマダイを越えたら、斜め右方向に側道があるのでそちらへ入っていきます。すると、途中から折れてしまっている大木や、石碑やお地蔵さんのある一角があります。粕畑貝塚です。この貝塚はバイガイ主体の小さな貝塚で、1935(S10)年に発見されました。貝塚からは縄文時代早期末の土器が出土しました。尾張地方では最も古い貝塚で、粕畑貝塚の名を由来として、当時の土器を「粕畑式」と呼ぶようになりました。しかし残念なことに、貝塚自体は壊されてしまい現在は跡形もありません。

 ここは貝塚跡であると同時に、笠寺観音が小松寺として建立された場所でもあるのです。石碑には「南無十一面観世音大菩薩」の文字があり、それを示しています。小松寺が笠覆寺となって現在地に移ったのは、藤原兼平夫妻が再興したときです。笠寺観音のところでお話した、玉照姫が長者にこき使われていた頃、雨に濡れた観音像に自分の笠を被せてあげた場所はここなのです。ここまでお参りに来れば、玉の輿作戦もより強固になるかもしれません。

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▲旧東海道は若干広くなり、中央線変異区間に。
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▲粕畑貝塚跡と、小松寺が建立された跡。
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▲ここで観音さまに笠をかぶせた。

 ではスーパーヤマダイの方向へと戻り、ちょろちょろと流れる小川沿いに整備された緑道を南へと歩きます。この緑道はずっと先で、工業地帯のオアシス大江川緑地に繋がるものです。その流れを汲んでいるせいか、緑道の両側にはちらほらと町工場の姿もあります。しばらく歩いていくと公園が見えてきました。本城公園です。公園の近くにはこの緑道の名を示した石碑があります。「中井用水緑道」とあります。それだけなら普通の石碑なのですが、面白いのはその石碑の上に、ふたりの赤ちゃんのブロンズ像が乗っかっているのです。しかも一人は寝そべって鼻に指をつっこんでいます。これは珍しくユーモアがあって面白い。そして本城公園にも、虫取りをしている少年のブロンズ像があります。「夏の川」というタイトルがつけられています。こちらは正統派。ちなみに公園や地名となっている「本城」とは、星崎城のことを指します。

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▲中井用水緑道。水が見当たりませんが、途中から並行します。
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▲向かって左の子の表情が最高。
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▲この像、中村区の中井筋緑道でも見たような...。中井繋がり?

 そしてこの本城公園には、面白いものがあります。おそらく名古屋ではここだけではないでしょうか。本城公園の横には名鉄名古屋本線が走っていて、近くに本星崎駅があります。もちろんここも高架化されておらず、踏切があります。しかし、踏切があるのは車道のみ、歩道と川には踏切はありません。川は無くても当たり前ですが。歩行者はどうやって渡るのか。なんと歩道は線路の下をくぐっています。それだけなら別に驚くことは無いのですが、線路や電線は剥き出し。柵も無し。轟音を立てて走っていく列車の下をくぐるのです。遮るものは薄いフェンスのみ。列車が通過している時に上を覗けば、列車のお腹部分が見えてしまいます。これはスリリング。「頭上注意2.1メートル」という錆びた看板も目に入ります。子どもたちが列車が通る時を狙って何度も楽しそうに往復していました。まあ、多くの大人は階段が面倒くさいからか、車道を歩いていましたけどね。こんなことで感動してしまうのは、まだ子どもなのでしょうか。

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▲本城公園。本城とは星崎城のこと。
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▲歩道は線路の下へ。
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▲この真上を列車が通過していきます。大迫力。マニアも満足?

 線路を越えると、いよいよ国道1号が近づいてきます。すると右手にお堀らしきものがある神社が見えてきます。飾りのような石橋で水の無い小さなお堀を渡ります。星宮神社です。星宮神社は飛鳥時代の初期、舒明天皇(629~641年)の頃に創建されており、かなり古い神社に属します。現在は熱田神宮に祀られている上知我麻神社と下知我麻神社は、かつてこの星宮社にありました。さて、星宮社では毎年10月の第一日曜日とその前日に秋祭りが開かれます。1969(S43)年から山車の曳き回しは中止されていたのですが、1992(H4)年から山車祭りが再開し、2000(H12)年からは山車の曳き回しが復活しています。

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▲遠くから見ると、一見歩道が無くなっているかのよう。
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▲1400年前に星が降ってきた?星宮神社。
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▲秋祭りではここから山車が曳き回されます。

 星宮神社を越えると中井用水緑道は終点です。用水は国道1号をくぐり大江川となり、大江川緑道へと注がれます。星宮神社の周辺には、本星崎、星宮、星園と星の名のつく地名がたくさんあります。それらはもちろんこの星宮神社に由来しているのですが、ではなぜ星宮神社は星宮神社なのか。一説には星、つまり隕石がここに降ってきてそれを祀ったのが始まりだとか。降ってきた星を祀る神社、今ですとロマンチックな感じもしますが、当時は大騒ぎだったでしょうね。昔は彗星や隕石は災いをもたらすものだと思われていましたから。それを恐れて祀ったのかもしれません。

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▲緑道は静かな住宅街を通ります。
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▲中井用水は国道1号の地下を通り名前が変わります。
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▲大江川と名を変えて、工業地帯へと注がれていきます。

 ちなみにこの星宮神社から南に700メートルほどのところにある喚続神社には、日本で2番目に古い隕石が社宝として祀られていました。記録では旧暦の1632(寛永9)年8月14日の午前0時過ぎに落ちてきたとのこと。現在は国立科学博物館に所蔵されています。

 よく星が降ってくるから星崎なのか、星崎という地名にしたから星がよく降るのか。とにかく星崎界隈を夜歩く時は、頭上注意です。

>>緑区へ続く


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