13.緑区 名古屋を歩こう

新!桶狭間の戦いその3

記事公開日:2005年10月20日

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 豊明市と緑区に残る桶狭間の戦いの痕跡をたどる3回目です。これまでは今川義元方の史跡ばかりでしたが、緑区の武路町界隈には織田軍の史跡も残されています。緑区の大池から今度は北方向へと歩きます。

 大池から北方向ということは、旧東海道の茶屋集落「有松」へと歩くことになります。しばらくするとユーストアがあるのでそれを越えたところで右に曲がり、道なりに歩いていくと武路公園があります。このあたり一帯はかつて武路釜ヶ谷と呼ばれ、中島砦から進撃してきた織田軍がこの谷に潜んで、今川軍の様子を伺い奇襲のチャンスを待ち構えていたそうです。そして武路公園から真西の道を歩くと、住宅街のなかに「七ッ塚」と書かれた石碑がポツンと残されています。ここは、義元を討ち取った信長が兵を集めて勝ち鬨をあげた場所で、信長は勝ち鬨をあげると清洲へと帰っていきました。その後、村人はこの周辺に七つの穴を掘り戦没者を弔いました。そのため七ッ塚と呼ばれています。ここから奇襲のチャンスを伺ったというのが本当であれば、戦いの舞台は緑区で確定です。ここから豊明の古戦場跡は見えません。

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▲信長軍が潜んでいたといわれる武路釜ヶ谷。
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▲案内張り紙に従って、住宅街を縫うように歩くと...。
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▲七ツ塚が登場。信長はここで兵を集めて勝ち鬨をあげた。

 再び先程の有松へと向かう道に戻ります。今度は右側に地蔵池という池が見えます。さらに北へと歩きます。次第に道の両側がせりあがり、あっと言う間に道路が谷状になります。特に西側の山は急で、向こう側に通じていない細い路地があるだけで山を越えることができないどころか、山頂に見える稲荷神社に行く道が鎖されてしまいます。そして右側の山には白壁の建物が建ち並ぶグリーンハイツがあります。まるで地中海のようとは言い過ぎでしょうか。

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▲有松方面へ。次第に道の両側が山に。
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▲この先に稲荷神社があるようなのだけれど...。
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▲グリーンハイツ。まるで地中海のよう?

 しばらくして、その先に国道1号線が目視できるくらいになると、左側に有松中学校へと続く坂道が表れます。かなり急な坂道で、次の一歩を踏み出すのがしんどい程です。すると坂の途中、左側のフェンスが途切れる部分があり、舗装されていない道が奥へと続いていて神社が見えます。先程行けなかった稲荷神社かと思ったのですが場所が違います。御嶽神社です。山の中腹ですが開けた場所にあり、先ほどのグリーンハイツが一望できます。それにしてもよくこんな山にあれだけの団地を建てたものだと感心します。

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▲一歩を進めるのが大変な、有松中学校へと向かう道。
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▲フェンスが途切れた右側の脇道へ進みます。
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▲すると山の中腹に御嶽神社があります。

 有松中学校の横の道に戻ります。そういえば隣の山、生山のグリーンハイツに住んでいる人はこの高根山の有松中学校に通うわけですから、まさしく山から山へ谷を越えて登校することになります。毎日これだけの坂を登り下りすれば確実に鍛えられます。でも山といっても建物が多いので田舎の里山という風景ではありません。コンクリートに覆われた山です。

 中学校を越え、さらにきつくなる坂を上りきったところに鳥居が見えます。山頂の有松神社です。ここは1955(S30)年に社殿が作られた比較的新しい神社で、日清、日露、太平洋戦争の戦没者が祭られています。しかしこの場所も桶狭間の戦い縁の地なのです。この高根山山頂には、今川方の先陣であった軍勢200の松井宗信軍が、善照寺砦の織田軍を物見するためにやってきたところに、織田方の佐々隼人正軍、千秋四郎軍が攻め込み激戦が繰り広げられました。善照砦は鳴海小学校の近くにあります、後ほど紹介します。織田方の両軍は敗北を喫します。その後、織田軍は奇襲作戦に入るのです。

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▲山の頂上が見えてきました。神社があります。
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▲戦没者を祀る有松神社。
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▲高根山山頂からは桶狭間が一望できます。

 と、以上がこの界隈に残る桶狭間の戦いの痕跡です。こうやって見てきますと、緑区の方が合戦の舞台として有力なのではという気もしてきます。先に登場した緑区の詳しい方にお話を伺いますと当然ながら、緑区が合戦の舞台であり、最近はその説の方が有力になっていると自信満々で答えられました。当時の資料が全く残されていないだけに真相は闇の中です。しかし、国に史跡指定されている豊明市の方が説得力があります。国の史跡指定を受けている豊明市にしてみれば、同じように古戦場を主張する名古屋市のことが気に入らないことでしょう。それが、豊明市の古戦場における義元主役傾向に拍車をかけているのかもしれません。義元を攻撃した信長に、豊明市を攻撃する名古屋市を見ているのでしょう。

 では最後に、その古戦場を巡る現在の戦いを見てみましょう。

 豊明市は先述のとおり、今川義元などのお墓があったことから、愛知郡豊明村だった1937(S12)年に国から「桶狭間古戦場」の史跡指定を受けています。この桶狭間という地名は戦いが繰り広げられた当時からあったわけではありません。しかしその「桶狭間」を名乗っていた桶狭間村と、有松村が合併して誕生していた知多郡有松町にとって「桶狭間古戦場」を豊明が名乗ることが面白いわけがありません。

 その有松町が1964(S39)年12月に名古屋市に編入されると、名古屋市は「桶狭間古戦場調査委員会」を設け本格的に調査を開始します。そして結論が出されました。

「戦場となった地域は、旧桶狭間村と豊明村にまたがった範囲と推定される。」

 ...。

 結局場所は特定できず終いとなったのでした。

 今川義元が昼食をとっていたところに織田軍は奇襲をかけ、義元の首をとりました。3千の兵で2万5千の兵をやっつけたのです。これにより歴史は大きく変わりました。昼食をとっていた言っても、のんびり油断していたところを不意打ちというものではなく、大雨の中泥まみれで激しい戦いだったとのこと。それが一体どこであったのか...。でも、このままわからないままのほうが良いかもしれません。どちらであったとしても、はっきりすれば豊明市と名古屋市の間に大きな亀裂が入ってしまいます。

 ふたつの桶狭間。これからもこの状態は続いていくことでしょう。この戦いは終わらない。


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