13.緑区 名古屋を歩こう

新!桶狭間の戦いその2

記事公開日:2005年10月20日 更新日:

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 前回訪れました、豊明市栄町南舘の「桶狭間古戦場」は、今川義元の戦死した場所とされお墓もあり、1937(S12)年には国の指定史跡となっていました。ところが、緑区桶狭間北にも「桶狭間古戦場公園」があります。説明看板には「この地が歴史に云う桶狭間合戦の古戦場で今川義元戦死の地であります。」とあります。豊明市と緑区にふたつの古戦場実際に信長の奇襲作戦が行われたのはどちらなのでしょうか。もうひとつの古戦場である
「桶狭間古戦場公園」を見てみましょう。

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▲名古屋市内にある、もうひとつの桶狭間古戦場。

 この公園には「桶狭間古戦場保存会」が設置した説明看板がいくつもあります。看板を見ると、この公園周辺には戦いの痕跡がいくつも残されているようです。詳しい地元の方に公園を案内していただく機会に恵まれましたので、お話とともに見ていきましょう。

 公園にはたくさんの木があるのですが、中に一本だけ途中で折れ、枯れているかのような白い木があります。これはねず(杜松)の木で、今川義元がこの木に馬を繋いで昼食のための休息をとったといわれています。木の横には「駿公墓碣」と刻まれた義元の墓標もあります。豊明だけでなく、緑区にも義元のお墓があるのです。ただ、こちらは豊明と違い建立年が不明です。この「今川義元公馬つなぎのねず」からは義元の亡霊が氏蛍となって京の都の方向へ飛ぶという伝説があり、また、木に触れると熱病にかかるそうです。嘘だと思われる方はぜひ触ってみてください。ちゃんと実例もあるのです。かつてここで刈谷の魚屋さんが義元の亡霊を見ました。義元の亡霊は魚屋さんに、亡霊を見たことを絶対に人に言うなと言いました。しかし魚屋さんは口外してしまいます。すると、魚屋さんはやがて熱病にかかり亡くなってしまったのです。私にはねずの木を触る勇気はありませんでした。

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▲もちろんこちらの案内看板では、この公園が決戦の地。
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▲義元公馬つなぎのねずの木。触ってみます?

 公園内には泉の跡があり小川も流れています。今は湧き出ていませんが、かつてこの泉から噴き出す水の勢いは強く、泉に置いてあった水汲み用の桶が水の勢いでクルクルと周り、刈谷街道を通る旅人の間で名物となり、ここに「桶狭間」という地名がついたそうです。さて、義元はこの地で馬を繋ぎ休息した際、この泉の水を飲んだといわれています。そのため「今川義元公水汲みの泉」と呼ばれていると同時に「義元公首洗いの泉」とも呼ばれています。なぜなら、義元はこの地で休息を取った際に信長軍に襲われ首をとられ、この泉で義元の首が洗われたからだそうです。また川の名前が「鞍流瀬川」になっていたのは、桶狭間の戦いによって流された人や馬の赤い血と一緒に、馬の鞍がこの川を流れて行ったことから名付けられたもので、川には浄土橋という名の橋が架かっていました。豊明よりも緑区の方が古戦場の証拠となり得る史跡が多いと感じたのですがよくお話を聞くと、この公園にある小川は実はその鞍流瀬川ではないのです。川は区画整理によって1986(S61)年に埋め立てられ、浄土橋も取り壊されたとのこと...。でも、川は実際にこの公園の横を流れていたそうですから嘘ではありませんけど、今はもう痕跡はありません。

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▲今川義元が水を汲み、首を洗われた泉。
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▲公園に小川が流れていますが、これは公園整備時に作られた物。

 さて、この公園には他にも石碑が残されています。「桶狭間古戦場の碑」は、鞍流瀬川から発見されたもので、裏面には文化十三年という文字が残されています。豊明にあった最古の碑より45年も後に作られた物です。また「桶狭間古戦場田楽坪の碑」もあり、こちらは今川軍の先陣だった松井左衛門佐宗信の子孫である松井石根さんが1933(S8)年5月、この地に訪れた際に書かれた文字を、のちに石碑にしたものです。これら石碑は、ここが古戦場である根拠にはなり得ませんね...。緑区の古戦場公園にある史跡は以上です。しかもこの古戦場公園、区画整理によって1988(S63)年に作られたとのこと。公園の歴史が浅いなぁ。豊明は国の指定史跡ですからやはり...と思ったら、緑区側はまだこれでは終わりませんでした。公園周辺にも古戦場の痕跡がたくさんあるとのこと。先程の方に教えていただきましたので、続いて公園周辺も歩いてみます。

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▲鞍流瀬川から発見された桶狭間古戦場の碑。
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▲写真右端にあるのが、桶狭間古戦場田楽坪の碑。

 公園の南側には大池という池があります。区画整理によって小さくなっているものの、合戦当時からあるとのことです。池の東岸には瀬名氏俊陣地跡があります。瀬名氏俊は今川軍の先発隊として、合戦の2日前、1560(永禄3)年5月17日(新暦6月10日)にこの地へ200の兵を連れてやってきました。翌18日、村人を使って桶狭間山に陣地を築かせました。それは19日に義元の本軍がここで昼休みをとるための陣地です。そして義元はその19日に桶狭間の陣地で昼食をとります。その間に信長軍の奇襲を受け首を獲られるわけです。

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▲合戦当時からある大池。
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▲瀬名氏俊陣地跡。奥に見えるのが桶狭間山。

 そして大池の西岸には一本の大きな松の木があります。「戦評の松」です。瀬名氏俊はこの松の木の下に武将を集め、戦いの講評をしたといわれています。ここにはその当時の松の木がずっと残っていたのですが、1959(S34)年の伊勢湾台風によって枯れてしまい、現在の松は1962(S37)年に植えられた二代目です。ちなみに、この戦評の松の北側の細い道を西に歩いていくとさらに大きな池があり、その池の西側には廃墟のような建物が残されています。NHK桶狭間ラジオ送信所の跡地です。かつてはここからNHKラジオの電波が発射されていました。現在アンテナは撤去されているものの建物は残されており、住宅街の真ん中で異様な雰囲気を放っています。詳しくお話したいところですが、今回は桶狭間の戦いを中心に見ていますので、緑区と放送の関わりについてのお話は伝治山のところでお話します。

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▲瀬名氏俊がこの松の木の下で戦評を行った。戦評の松。
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▲松の奥にもさらに池が。
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▲住宅街に登場するNHK放送所の廃墟。

 続いて大池の南側、JAのある信号からさらに南へ歩くと右側に神明社があります。境内は広く、この日は子ども達が楽しそうに遊んでいました。昔ながらの風景です。そして森も深く、鳥の美しいさえずりが風に乗って耳元を通り過ぎていきます。神社に伝わる話によりますと、桶狭間の里は1340年代に南朝の落ち武者によって開拓され、創建は不明ですが神明社は村の氏神として建てられました。1560(永禄3)年の桶狭間の戦いの際には、瀬名氏俊がこの神明社で戦勝祈願をしています。そして1608年には、神明社は既に現在の大きさになっていたとの記録があるとのこと。また神明社には、義元が水を汲んだという桶も宝物として残されています。見ると、社殿の前に枯れた杉の木があります。これも歴史の遺物でして、尾張藩4代目藩主の徳川吉通が植えたもので、1860(万延元)年に台風によって枯死してしまったものが残されています。

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▲瀬名氏俊が戦勝を祈願した神明社。
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▲中央に見える枯れた松が、尾張藩4代目藩主の徳川吉通お手植え。

 さらに瀬名氏俊の足跡を追います。大池の南側から東に歩いていくと、長福寺というお寺があり「桶狭間古戦場ゆかりの寺」という看板があります。何がゆかりなのでしょうか。寺伝によると桶狭間の戦いの際、今川軍がこの地に到着すると聞くとお寺は、村人を率先して食べ物やお酒を提供し労をねぎらったそうです。現在も寺宝として今川義元とその家臣であった松井宗信の木像、そして合戦記が残されています。大池を一周すれば、450年の時を越えて瀬名氏俊の歩いた道を追うことができます。本陣を築き、松の木の下で戦いの講評をし、神社で勝利を祈り、このお寺で食事をとったのでしょう。これだけ史跡が残されていると、豊明よりも緑区のほうが古戦場として次第に有力になってきた気がします。でもまだ待ってください、緑区の桶狭間史跡巡りはこれで終わりません。織田軍に関する史跡もあるのです。

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▲大池のほとりにある、桶狭間古戦場ゆかりの寺、長福寺。
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▲このお寺の前に鞍流瀬川が流れていて、浄土橋があった。
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▲瀬名氏俊らが食事をしたといわれる長福寺。

 それはまた次回です。桶狭間の戦いの真相はいかに。


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