04.北区 名古屋を歩こう

ワイドショーで特集された街

記事公開日:2004年5月5日 更新日:

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橋を越えて一歩踏み出す勇気-瑠璃光橋・成福寺

 堀川沿いに戻り川を遡りましょう。ここからは橋ごとに恋の話が言い伝えられています。庄内用水とは違い、近くに公団尾上住宅や県営織部住宅や新興マンション、そして古くからの住宅があるからか、この緑道を散歩する人は多く憩いの場が形成されていました。近くにこういった散歩道があるという環境は、都心の栄からわずか3~4kmとは思えません。通勤に至極便利でこの環境、しかも新築マンションがファミリータイプで1千万円台で手に入るという状況、東京では考えられませんよね。

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▲夕方ともなると、犬の散歩をする人が緑道にたくさん。

 歩いていると、橋の欄干に羽ばたく鳥と子どもの像がある橋があります。しかも丁寧に4つ設置してあります。瑠璃光橋です。この橋にはこんな話が残されています。橋に、ひとりの女の子がただずんでいました。その子の名は千代と言います。これから、上飯田に出来たばかりの紡績工場に向かうところです。大工であった父親が突然病気で倒れ、女工として働くこととなったのです。この橋を渡れば、もう来年の盆まで村に帰ることはできません。千代には将来を約束した哲次という青年がいました。哲次はその前の夜、千代の手を取り勤めが終わったら一緒になろうと言ってくれたのでした。橋から見た西の空には、大きな虹がかかっていました。橋を越えても辛いことばかりとは限らない、橋の向こうにある成福寺にある瑠璃光薬師如来はどんな願いでもかなえてくれると言います。千代は小走りに橋を駆け出しました。無事に勤め上げられるようにお祈りをしよう...。

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▲瑠璃光橋です。橋の欄干4ヶ所にはばたく鳥と子どもの姿。
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▲鳥は今にも飛び立ちそうで、子どもからは躍動感が伝わります。

堀川でのりを落とす名古屋友禅流し-名古屋友禅

 現在、橋の向こうも住宅ばかりで工場の見る影はありませんが、繊維産業の面影は残っています。それは伝統工芸である名古屋友禅です。名古屋友禅は京風よりも渋いのが特徴です。この地に友禅の技術が伝えられたのは尾張藩7代藩主・宗春の頃で、京都から友禅師がやってきて、手書き友禅の手法が伝わったと言われています。はじめのうちは京都と同じように派手な模様だったのですが、宗春が謹慎を命ぜられた時から、名古屋は地味な模様になったそうです。友禅染めにはのり落としが必要ですが、現在は堀川に友禅を流し、そこでのり落としをする「名古屋友禅流し」というイベントも開かれています。そのイベントは、毎年桜の季節に行われ、のりを落とし水面に表れる鮮やかな友禅に、桜の花びらが散るという風情あふれる情景が広がります。

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▲上飯田に工場の面影はありません。このマックはかつてドムドムバーガーで、名古屋では珍しい存在でした。

30年の時を越えようやく接続-名鉄上飯田駅

 では、一旦堀川から離れます。瑠璃光橋から道路はY字型に別れているのですが、真東に歩きます。すると名鉄の上飯田駅のある御成通が表れます。実はこの通り、テレビ朝日の「モーニングショー」で何度も取り上げられたことがあります。それはいったいなぜでしょうか。ちなみにその原因は2003(H15)年3月に解消しています。それまでの上飯田を見てみましょう。

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▲御成通です。戦時中は兵隊の行列、この間まではサラリーマンの行列が...。

 名鉄小牧線はここ上飯田が終点でした。この小牧線が全線開通したのが1931(S6)年のことです。それまでは上飯田から小牧までを名岐鉄道城北線、それより北を尾北線としていましたが、全線開通したことで大曽根線としました。これは将来的に大曽根駅に乗り入れを図ろうというもので、上飯田から東大曽根間の起動敷設特許も取得しました。そして1935(S10)年名岐鉄道は愛知電気鉄道と合併し名古屋鉄道となります。しかしこの上飯田・東大曽根間は着手されず、その後1942(S17)年に名古屋市電大曽根・上飯田間が開通することで計画を中止しています。

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▲名鉄上飯田ビルです。もとの上飯田駅より北に建てられた新駅でした。

 市電の上飯田駅は名鉄上飯田駅の線路と繋がっていませんでしたが、至近距離だったために乗り換えも便利で、名鉄上飯田駅を降りてそのまま名古屋市電が利用できる体制となっていました。その後名鉄の上飯田駅は100m北側に移り、かつて駅があったところには大きなビルが建設されました。また1970(S40)年には駅ビルが開業し高架化され、どうにも線路を延長することはできなくなりました。

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▲駅を北に移動し、その南に建てられた上飯田ビル。線路延長は不可に。

 そして1971(S46)年2月市電は廃止されます。こうして小牧線はここ上飯田を終点とする盲腸線になってしまったのでした。地下鉄名城線の大曽根までの区間が、その年の12月に開業したものの、最寄の平安通駅は上飯田駅から約1km離れており、渋滞に巻き込まれるおそれのあるバス利用を嫌う通勤客は、この御成通を1kmもの距離、毎朝行列を成して歩くのです。その様子は滑稽で、これがワイドショーで取り上げられたのです。名古屋は電車の接続も計画的に考えられていない。乗換駅が1kmも離れていると揶揄されたのでした。

 それから30年以上の時を経て、この上飯田と平安通は地下鉄で結ばれました。それが2003(H15)年3月27日に開通した上飯田連絡線です。この上飯田線は通常の地下鉄と違い市営ではなく、第3セクターである上飯田連絡線株式会社が経営することとなり上飯田のひとつ北側の駅である味鋺から平安通までが地下化され、平安通まで直通運転されることとなり、ようやく「毎朝1kmの歩行乗り換え」は無くなったのです。

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▲現在の上飯田駅入口です。連絡線と名鉄のマークが仲良く並びます。

 これには全ての人が大喜び...と言いたいところなのですが、御成通に店を構える商店にとっては大きな痛手で、それらに配慮して名鉄や市は計画を進めなかったのではないか、と言われているほどです。実際、名鉄単独では路線延長は不可能だった現実があるわけで、故意に開通を遅らせたと言うのは邪推ような気もします。

 現在、線路が地下化されてしまったために、名鉄の駅ビルは不思議な状態で残されており、かつて高架があった場所は全て撤去され駐車場となっています。上飯田と平安通を結ぶたった1kmの線路があるか無いかで、北区、小牧市、犬山市など小牧線沿線の住民の利便性が大きく変わりました。たった1kmですがその実現には30年の時がかかりました。

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▲かつての高架は撤去され、現在は駐車場に。
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▲かつての駅ビルには商店が入っているのですが、駅の雰囲気のまま。

 やはり、東京では考えられない対応の遅さなのかもしれません。しかし、この歩行風景が無くなったことはワイドショーで話題になることはありませんでした。かつて、そんな通勤風景を特集したスタッフもそのことをすっかり忘れてしまったか、取材現場から離れてしまったのでしょう。30年ですからね...。

 ようやく上飯田は、地下鉄沿線の街になることができました。

 でも逆に、東京って地下鉄の乗り換えに1kmとか、平気で存在するような気がするのですが...。

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▲古い駅ビルの前に、ピカピカの駅入口。

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