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6「黒川」
江戸時代にもマニアはいた
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s 2004.4月 取材

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画像お城へと水を運ぶ運河黒川・御用水(堀川)
画像水と暮らす贅沢北清水親水広場
画像十日で夜泣きが止まった児子八幡社
画像江戸時代にもマニアはいた安栄寺

画像お城へと水を運ぶ運河 −黒川・御用水(堀川)
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 では、日を改めて地下鉄名城線の黒川駅で下車して、黒川から堀川沿いを歩いていきましょう。さてこの黒川という地名ですが、地図を見ても黒川という川はありません。流れているのは堀川です。黒川はどこへ行ってしまったのでしょう。
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▲堀川です。桜が散って川面には花びら。

 庄内川から名古屋城まで水が初めて通ったのは1663(寛文3)年のことです。名古屋城から伊勢湾を結ぶ運河である堀川が掘られたのが1610(慶長15)年ですから、それよりも53年後のことです。それまでは名古屋城に流れる川は無く、堀川には名古屋城から湧き出る自然の水が流れていただけです。しかし堀川の水質が悪化し、名古屋城へと水を流し入れる計画が持ち上がります。そして現在の守山区龍泉寺の南側から庄内川の水を取り入れ、名古屋城のお堀までを結ぶ幅約3メートルの水路が作られました。それが御用水です。名古屋城に北から流入するのが御用水、南へ流れ出るのが側が堀川となります。当時は辻村用水とも呼ばれ、御用水を各家庭が、そしてお城の向こう堀川沿いの家庭も堀川の水を飲用として利用していました。
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▲もう少し早ければ、桜の美しい景色が見られたのに…残念。

 さらに1877(M10)年に、御用水に並行するように黒川が開削されます。この時に御用水も黒川も北区の水分橋から庄内川を取水するようになり、三階橋近くの黒川分水池で黒川と御用水に水が分配されました。その後、御用水はだんだんと水質が悪くなり、上水道が整備され利用価値が無くなってしまいます。そこで市は御用水を埋め立て散歩道にする計画を立てます。そして庄内川からお城へ流れる川は1本となり、庄内川から伊勢湾までが堀川と名前が一本化されます。実際の埋め立て工事は1972(S47)から74(49)年にかけて行われ、桜の木が植えられました。それが全長1.6kmの御用水跡街園として現在は川沿いの緑道となっています。では、その堀川沿いを歩きましょう。
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▲緑道では散歩する夫婦やジョギングをする人も…。

画像水と暮らす贅沢 −北清水親水広場
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 黒川の駅を出て、東に走る国道41号へと出ます。すると南に名古屋高速黒川インターチェンジが見えます。そこにあるのが堀川に架かる北清水橋です。ここでは川岸に降りることができます。川岸は北清水親水広場として整備されています。川を覗き込むと魚が動く影を見ることができますし、トンボ池では地元の小学生がヤゴを放流したりと、その水の綺麗さに驚かされます。古くからの住宅密集地にもかかわらず、なぜ川岸に広場にするほどの場所が取れたのかと言いますと、かつてここは船着場だったのだそうです。黒川はかつては名古屋の産業を支える北の大動脈で、この船着場も大活躍していたそうです。今は市民の憩いの場となっています。こんなところで夏の夕涼みをしてみたいものです。
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▲北清水親水広場です。かつては船着場でした。画像 ▲広場から見上げると、名古屋高速黒川インター。

画像十日で夜泣きが止まった −児子八幡社
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 堀川に沿って上流へと歩いていきます。しばらくすると志賀橋にぶつかりますので、志賀橋を渡り、交差点の一本西側の道を北上します。すると児子宮と呼ばれる児子八幡社があります。元は志賀公園近くにあったのですが、1874(M7)年にこの地に移されています。ここに3つ目の恋の話があります。時は天保年間(1830〜1842)、この村に住む重三とお静の間に仙吉という子が生まれました。仙吉は夜泣きがすごく、夫婦は寝不足でした。重三は大工で朝が早いのですが、ある日寝不足と疲労がたまり仕事で大失敗をしてしまいます。それからは仙吉が夜泣きをするたびに、お静は仙吉を外へ連れ出してあやすようにしていました。あやしたり薬を飲ましたりするうちに、お静は一睡もせず朝を迎えることが多くなりました。
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▲「児子宮」の通称で知られる児子八幡社です。

 大家は二人を見かね、仙吉を児子の宮に行ってお参りをしなさい、と勧めます。お静は児子の宮に毎日通ってお祈りしました。すると十日で仙吉の夜泣きは治り、二人はやっと安眠することができました。児子の宮は子どもの守り神として江戸時代から多くの信仰を集めました。代々の尾張藩主も幼い頃、この児子宮の虫封じを授かったと言われています。江戸時代には神殿で神楽も演じられ、大変人が集まったそうです。これが恋のお話とされています。子どもは恋の結晶ですからね。
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▲この神殿で神楽が演じられていたのでしょうか。

画像江戸時代にもマニアはいた −安栄寺
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 そして、すぐ近くにある安栄寺に4つ目の恋の話があるのですが、とても面白いお話です。安栄寺は大須万松寺の末寺で、1614(慶長19)年に建立されています。幕末の頃、このお寺の近くに源吉という男が住んでいました。源吉には千代という妻がおり、源吉はあることに夢中で畑仕事もせず、畑仕事は全て千代がやっていました。近所の人はそんな二人を見て変わり者だと噂をしていました。今夜も千代が畑仕事を終えて家に帰ると、源吉は自分のコレクションを眺めて至福の表情をしていました。
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 源吉が集めていたものとは、石です。毎日川に出かけては様々な石を拾ってきて、熱心に布で磨いています。色・形、石にはひとつとして同じ物は無く、全て違う表情を見せます。源吉はそれを部屋に並べ満足気です。千代は「この人は私がいなければ何もできない」と苦笑いをするばかりでした。源吉が石を集めていることが広く知られるようになると、源吉の石を見せて欲しいという人がたくさん訪れるようになりました。中には床の間に飾りたい、庭石にしたいと、たくさんのお金を持ってくる人もいました。しかし、源吉はひとつたりとも石を手元から離すことはありませんでした。それがまたカリスマ性を生み、石マニアが続々と源吉のコレクションを見に集まるようになりました。源吉は石の神様として讃えられるようになり、死後それらの石マニアたちによって、金牛岡(きんぎゅうこう)という碑がこの安栄寺の庭に建てられたのです。
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▲安栄寺です。何事も極めれば尊敬される…なるほど。画像 ▲安栄寺には水野重咲の碑も。この石も源吉に言わせると…どうかな。

 何事も、中途半端なマニアは変わり者、極めれば神。それは今も昔も変わらないようです。しかし、ここで一番感心すべきは源吉の石マニアぶりよりも、それに文句を言わず支え続けた妻の千代でしょう。
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 今も石を集めているマニアはいるようですので、そういった方は一度このお寺をお参りすることをお勧めします。新境地が開拓できるかもしれませんよ。
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