04.北区 名古屋を歩こう

娘を救ったお地蔵さん

記事公開日:2004年5月5日

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橋を掛けることがずっと許されなかった-ふれあい橋

 再び成願寺の前にやってきました。ここから矢田川、庄内川を「ふれあい橋」で一気に渡ります。この橋は1993(H5)年3月にかけられたものですが、ここには長年橋は無く、矢田川は昭和のはじめまで成願寺の南を流れていました。「矢田川渡り」と言い、矢田川は浅いので歩いてわたることができましたが、庄内川は当時から大きかったにもかかわらず、軍略上橋が架けられなかったため、ここには「味鋺の渡し」がありました。藩の管理下にあったため、上流の勝川の渡しより安く、馬一駄=八文、商人=五文、平人=四文という代金でした。もちろん、大水の時は跳ね上がります。ただし、10月から2月までは渇水で船が渡れなかったため、仮橋が架けられている様子が、天保年間の頃の絵図に見られます。現在、ここに架かる橋は歩行者専用のため安心して散歩をすることができます。この日もたくさんの人が歩いていました。そして川面を見ると魚を泳ぐ姿が見えました。これだけの自然が都心からそれほど遠く無いところにある名古屋って、やっぱりいいなぁ。

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▲ふれあい橋です。車の往来の激しい堤防道路と違い安心して歩けます。
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▲矢田川です。たくさんの魚を水面に見ることができました。
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▲庄内川です。軍略上橋が架けられなかったとは...。

お参りしないと雷落としちゃうよ-専光寺・忠魂社・西八幡社

 橋を渡ると、土手を降りたところに専光寺、忠魂社、西八龍社があります。西八龍社は承平年間(921-938)に創建と伝えられています。文政の頃(1818-1830)から雷除けの神、日ごいの神として崇敬されてきたと言われています。先の戦争で本殿以外は焼失してしまい、その後堤防改修工事のために、社を60メートル北の現在地に1950(S25)年7月に移転しています。ただし、鳥居はそのままの位置に残されました。本殿は1997(H9)年6月に新築されています。本殿の前には「竜の木」と呼ばれる御神木があるのですが、雷に撃たれています。なぜ、この神社が雷除けの神となったのかと言いますと、昔、西八龍社の祭礼に背いた知識人の家が、その後落雷で燃えてしまったという伝説が残されているのです。パソコンがこれだけ普及した現在、雷は以前にも増して恐ろしい存在となっています。落雷でデータを焼失しないためにも、しっかりとお参りしておきました。

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▲専光寺です。
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▲忠魂社では子どもたちが遊んでいました。自転車が転がっています。
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▲西八龍社です。落雷にあった神木に驚かされます。

通れそうで絶対通れない-東八幡社

 専光寺の北側の道を東へずっと歩いていくと、やがて「通り抜けできません」という看板が表れます。その突き当たりにあるのが東八龍社です。石垣の上に小さな本殿がちょこんと置いてあるだけなのですが、敷地は結構広いです。由緒書きなどはありませんでしたが、看板には味鋺神社の文字があり、ひょっとすると味鋺神社の管理下に置かれているのかもしれません。ところで、先ほどの道路はこの東八龍社の前で左に折れているのですが、折れた先には道路があり、一見通り抜けることができそうな感じなのですが、よく見ると、折れ曲がった部分に家の庭の敷地が食い込むように鋭角に入り込んでいて、一瞬だけ絶対に車が通ることのできない幅になっています。この家か神社の敷地を少し削れば通行は可能になりますが、それほどここに交通量があるとは思えないので、この道路の切り込みはこれからも残して欲しいものです。

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▲通り抜けは出来ません。としつこく言われます。
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▲敷地は広いですが、東八龍社は小ぢんまりしています。
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▲この部分、どう頑張っても車は通れない...。

雨やどりの男女を結ぶ夫婦椿-味鋺神社・護国院

 ではその名前が出た味鋺神社へと歩きます。その車が通れない道を左に曲がり、突き当たりをさらに左に曲がり真っ直ぐ歩きます。すると東側に長い参道の味鋺神社と、その横に護国院が見えます。護国院は天平年間(729-749)に行基作の薬師如来像を本尊として創建されたと言われており、当時は薬師寺と言っていました。984(天暦2)年の大洪水によって荒れてしまいますが、1111(天永2)年西弥上人が再興し、護国院と名を改めました。護国院の近くには、名古屋城築城の際に加藤清正の命よって架けられた清正橋がありました。幅は1.7メートル、長さ3.1メートル、そして厚さは25センチの石材8本で作られていました。このあたりは古墳が多く、古墳の石材を利用したのではないかと言われています。ちなみにこの清正橋は1978(S53)年に移設され、隣の味鋺神社の境内にあります。かつてはこの橋が稲置街道のルートでした。

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▲護国院です。かつてはこの近くに清正橋がありました。
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▲味鋺神社です。参道が結構長いです。
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▲こちらが味鋺神社の境内に移された清正橋です。

 そして、味鋺神社の創建は不明ですが、平安時代に編纂された「延喜式」には格式の高い神社として記載されています。かつて行われていた流鏑馬神事は戦後途絶えてしまいましたが、御輿渡御は今も祭りの際には行われています。六神を祀ることから六所明神と呼ばれたこともあるそうです。さて、神社の境内には夫婦椿と呼ばれる椿があります。昔、ここで女性が雨宿りをしていると、いつのまにか若い男性も雨宿りにやってきました。雨は横殴りで一向に止む気配は無く、いつしか二人は1時間半も話に花を咲かせてしまいました。二人はずっと幸せに過ごすことができ、孫にも恵まれたそうです。現在も毎年椿は綺麗な花を咲かせます。それは二人の愛の証と言われています。北区にはこういった話が本当に多いですね。「恋の街北区」をもっとアピールしてもいいと思うんですけどね。

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▲夫婦椿です。雨の日に来ようかな...。

忍び返しの塀-稲置街道

 味鋺神社の横から、真っ直ぐ北に向かっている道路が旧稲置街道のルートです。この一帯には当時の面影が残っており、道端にはお地蔵さんが祀られています。また、古い建物に不思議な会社を発見しました。それは「株式会社日本浮世絵同好会」です。同好会なのに株式会社?と思ったのですが、この日は誰もいない様子で、話をお伺いすることはできませんでした。近くには清酒曲水宴を製造する酒蔵があります。このあたりは庄内川の地下水が豊富にでるのでおいしいお酒ができるそうです。蔵は宮大工の作と思われる重厚な作りとなっていて、「忍び返し」のついた塀や洪水に備えた石積みが見られます。

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▲同好会なのに会社組織...。
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▲ふとお地蔵さんがいます。石垣が水害地域であることを物語ります。
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▲清酒曲水宴は今でも庄内川の地下水で作ります。

なぜお地蔵さんがまっぷたつに-身代わり地蔵

 さらに北上すると、左に曲がる道路の北側にお地蔵さんがあります。このお地蔵さん、よく見ると首、そして胴体が真っぷたつに切断されていて、接着されています。誰かがイタズラをしたのでしょうか。いえ、このお地蔵さまは斬られた娘の身代わりになったのです。かつて味鋺の一ノ曽というところに郷士一之曾五左衛門というものがおり、この家に住み込みで働いていた娘がいました。娘は毎朝お地蔵様に長い時間お祈りをすることが日課でした。ある日五左衛門の家に侍が遊びに来た時、娘は座敷に運ぶ途中思わず徳利を落としてしまいます。すると五左衛門はいきなり娘を切捨てたのでした。

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▲首切り地蔵...名前は恐ろしいですが、本当に怖いのは武士でした。

 しかし、翌朝娘はいつものように目を覚ましました。斬られたのが夢のように思えたのですが、確かに座敷は血の海になっていました。おかしい、と思いつつお地蔵様のところに出かけると、お地蔵様の首、そして胴体が二つに切断されていて娘の身代わりになっていたのでした。

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▲首も胴体も実際に切れています。

 この話、ああ良かったとは思うのですが、ここで終わってしまうのが納得できません。切り捨てた五左衛門の脳天に天誅として落雷が、とかスカッとする展開が欲しいところですが、まぁ文政年間(1818-1830)のお話ですし、武士はお咎めが無かったという時代背景を読み取ることができます。お地蔵さまの少し北を東西に流れる新地蔵川にある緑道で桜を見ながら、「斬られた娘が翌朝普通に起きてきて、五左衛門はショック死したら結末としてはいいのになぁ。」などと昔話に勝手に脚色して想像してみました。

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▲新地蔵川緑道の桜が綺麗でした。

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