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8「白鳥」
白鳥が白鳥な理由
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s 2004.7-8月 取材

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画像 潮の満ち干きをハイテクで表現白鳥庭園
画像昔の名古屋の道しるべ藤江寺
画像今の名古屋の道しるべ西福寺
画像名古屋城の完成は見届けられなかった岡部又右衛門慰宅跡
画像江戸末期の戯作者笠亭仙果出生地
画像1年5ヶ月の漂流後生還青衾神社・滝之寺・成福寺
画像源頼朝出生地本遠寺・誓願寺
画像芭蕉たちが句会を開いた全隆寺・法持寺
画像日本武尊のお墓ではなかったけれど白鳥御陵

画像潮の満ち干きをハイテクで表現 −白鳥庭園
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 再び国道1号を西に歩き堀川の白鳥橋へと戻ってきました。白鳥橋の西側、熱田空襲の慰霊地蔵の向かいにあるのが白鳥庭園です。 白鳥庭園は白鳥公園のちょうど南側にあり、敷地3.7ヘクタールの池泉廻遊式日本庭園です。全体が中部地方をモチーフとしていて、御嶽山をイメージした築山から流れる小川が長良川、そしてその水は伊勢湾を見立てた池に流れます。庭園の中央には数寄屋造りの「清羽亭」という茶室もあり茶会や歌会なども開かれます。 梅やシダレ桜など季節によって花々も楽しめます。
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 ちなみにここもデザイン博の際に白鳥会場日本庭園として当初は整備されたもので、白鳥庭園としては1983(S58)年から1991(H3)年まで全面開園まで8年かけさらにパワーアップした大作です。またただの日本庭園にとどまらず、汐の満ち干きをハイテクを駆使して表現する「汐入の庭」は見ものです。入場料は200円とリーズナブルですが、駐車場が300円ですので公共交通機関で来た方がいいかもしれません。 名古屋は駐車場を無料にすると熱田神宮公園のように、営業マン憩いのスペースになってしまうために市の施設は有料化されました。
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▲堀川を白鳥橋から望みます。西側に白鳥庭園はあります。画像 ▲白鳥庭園の入口。この奥にハイテク庭園が。画像 ▲2004(H16)年8月から駐車場有料…って最近ですね。財政難も理由かも…。

画像昔の名古屋の道しるべ −藤江寺
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 国道1号を歩きます。白鳥橋を渡ると堀川の対岸は堀川端プロムナードとして散策路が整備されています。付近にはオシャレなカフェもちらほらと見かけます。さらに国道1号を歩くと左手に藤江寺があります。その藤江寺の前にあるのが名古屋道の道標です。名古屋城が築城された時に運ばれてきた石を利用して作られたもので、当時は浜の中心だった須賀(熱田区須賀町)から一文渡しと名古屋道への分岐を示しています。ここも佐屋街道の起点と同じように現代でも大きな道路の分岐点となっており、少し距離は離れていますが現代の道標もすぐ近くにあります。
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▲堀川端プロムナードでは犬の散歩をする人がちらほら。画像 ▲綺麗な山門の藤江寺。画像 ▲名古屋道道標です。旧東海道沿いにもありますがこちらのが古いです。

画像今の名古屋の道しるべ −西福寺
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 国道1号をさらに東に歩くと、角に西福寺のある熱田神宮南という大きな交差点にぶつかります。ここは東西の国道1号が走るのですが、北は国道19号、南は国道247号となっています。国道19号はここから旧中山道を経由して長野県長野市まで通じる主要国道です。そしてこの19号は22号との重複路線ともなっており、22号もここを起点として岐阜県岐阜市までを結ぶ主要国道となっています。道路脇には「ここが起点」という現代の道標とも言えるものが建っており、長野まで270km、岐阜まで37kmと書いてあります。昔と今の道標が同じ場所にあるのを見ますと、現代我々が利用している道路も歴史と繋がっているのだと実感できます。それにしても片側5車線でしかもゆったりの歩道というのはやりすぎですね。東京から出張でやってきた会社の先輩が驚くのも無理ありません。一応ここは名古屋の副都心近辺にもかかわらずこのスケール。
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▲西福寺は熱田神宮南交差点の北西角にあります。画像 ▲国道の起点標識初めて見ました。画像 ▲伏見通は片側4車線。正月は神宮参拝客の車で1車線埋まりますが、余裕。

画像名古屋城の完成は見届けられなかった −岡部又右衛門慰宅跡
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 そしてその起点の標識の横にある黒川商事の倉庫がある場所は、岡部又右衛門慰宅跡です。岡部家は代々熱田の宮大工でした。又兵衛以俊は総大匠司として安土城を完成させ功績を認められ織田信長から「日本総天守棟梁」の名を与えられました。そしてその子宗光は、中井大和とともに大匠司として豊臣秀吉による京都大沸殿造営にあたり、徳川家康の名古屋城築城に際しても大匠司となったのですが、完成を見ずに亡くなりました。親子2代で信長、秀吉、家康の三英傑に認められるということは相当の腕の持ち主だったに間違いありません。
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▲岡部又右衛門慰宅跡は現在倉庫になっています。

画像江戸末期の戯作者 −笠亭仙果出生地
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 そのすぐ北には江戸時代末期の戯作者である笠亭仙果出生地があります。本名を高橋広道、弥太郎と呼ばれていました。彼は和漢の学を学び、早くから戯作に傾倒し江戸の柳亭種彦に書を送り教えを受けていました。22歳となった1827(文政10)年に「目附画そう紙」を出し、のちに江戸へ上り多くの作品を残しました。ペンネームの笠亭仙果の由来については笠亭は師匠の柳亭の通音をとったもので、彼は10歳の頃、熱田神宮寺の僧に可愛がられており中国の仙桃をもらったことから仙果と名付けたといわれています。現代、名古屋のもの書きは東京を目指しますが、やはり当時から江戸でなければ、という考え方があったのでしょうか。
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▲笠亭仙果の出生地。幼い頃受けた恩は大切にしたいですね。

画像1年5ヶ月の漂流後生還 −青衾神社・滝之寺・成福寺
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 白鳥小学校の南側の道を左に曲がります。すると道路の交差点に熱田神宮の境外摂社である青衾(あおぶすま)神社がひっそりとあります。そこを左に曲がるとこちらも一見普通の民家のような滝之寺があります。しかし歴史は古く、連歌師による「滝之坊興行」が大永、永禄年間(1521-70)に行われたことで知られています。また、信長はここでも手習いを受けていたようです。次の角を左に曲がると船頭重吉の碑がある成福寺があります。督乗丸の船頭だった小栗重吉は1813(文化10)年に嵐で遭難し、なんと1年5ヶ月にわたり太平洋を漂流しました。そして英国船に救助され奇跡的に生還したのです。しかし多くの同航者は命を落とし、その供養のために建てられたもので船の形をしています。それにしても17ヶ月もの間食料がよく続きましたよね。まさか、まさか命を落とした同航者を…なんてことは無いと信じたいです。
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▲熱田神宮の境外摂社、青衾神社画像 ▲信長はこの滝之寺でも手習いを受けていた。画像 ▲船頭重吉の碑がある成福寺。17ヶ月漂流記。

画像源頼朝出生地 −本遠寺・誓願寺
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 成福寺の西には、正安(1299-1302)か応安(1368)の頃、日澄によって熱田神宮の法華堂だったものを本堂として創建された本遠寺があります。かつてあった楼門は室町時代に作られたもので国宝に指定されていましたが、熱田空襲によって焼失しています。そして本遠寺から北東、地下鉄神宮西駅方向に歩いたところにある誓願寺は源頼朝出生地として知られています。山門には徳川家の家紋があります。誓願寺は1529(享禄2)年に創建された尼寺で日本尼寺36ヶ所のひとつとなっています。鎌倉幕府を開いた源頼朝の産湯の井戸が境内に残されています。ちなみに頼朝の母は熱田宮司の娘でした。いい国作ろう鎌倉幕府。名古屋出身で天下を手に入れた人は多いですが、みんな立派になると名古屋を出て行ってしまいますよね。名古屋は英傑をたくさん輩出しているのに、結局名古屋は都になったことが無いのですよね…。
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▲本遠寺の入口には大きな石碑。画像 ▲いい国作ろう鎌倉幕府。源頼朝出生地である誓願寺。

画像芭蕉たちが句会を開いた −全隆寺・法持寺
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 そして旗屋町の交差点を渡ったところには尾張最初の永平寺直末寺院として1596(慶長元)年に創建された全隆寺があり、南西方向に歩いた次の信号の次の道を右に曲がると法持寺、そしてその裏には白鳥御陵という古墳があります。法持寺は弘法大師が自ら彫った地蔵菩薩像を本尊として小堂を建立したことに始まったとされ、松尾芭蕉とその名古屋の友人であった林桐葉、そして若山牧水らが句会、歌会を開いたところで、境内には句碑が並べられています。法持寺の裏手には木が覆い繁る丘があります。これが白鳥御陵と呼ばれる白鳥古墳です。
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▲旗屋町交差点にある全隆寺。画像 ▲法持寺のすぐ裏手に白鳥御陵があります。画像 ▲柵を越えるほどに木々が御陵を覆います。

画像日本武尊のお墓ではなかったけれど −白鳥御陵
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 この古墳は昔から日本武尊の御陵ではないかといわれていて、日本武尊が白鳥となって熱田の宮に飛び降り、この地に降り立ったことから白鳥御陵と名付けられこのあたりは白鳥と呼ばれるようになりました。しかし、この古墳は6世紀初め頃に作られたものであることがわかり、尾張氏の墓であるという説が有力となっています。全長74メートルの前方後円墳ですが、前方部全体と後円部の東部分が削られ原型は留めていません。
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 伊勢の地で志半ばで倒れた日本武尊が白鳥となって妻のいる熱田に帰ってきた。それでいいじゃないですか。伝説は伝説のままで…とはいかないのですよね考古学は。ただ、日本武尊が白鳥になったという伝説はここ以外にも残されており、三重県亀山市、奈良県御所市、大阪府羽曳野市にもそれぞれ白鳥陵が残されています。なので、日本武尊は命を落として白鳥に姿を変えたこと自体は間違いないようです。ちなみに妻は熱田の宮簀媛命以外にも、生贄として海に飛び込んだ弟橘比売(おとたちばなひめ)や、両道入姫命(ふたじいりひめ)もいましたし、他にもいたようなので結構飛び回るのに忙しかったのかもしれません。でも白鳥に姿を変えたということはやはり海に沈んだ弟橘比売のところに行ったのかなあ。
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▲堀川から白鳥御陵を見るとまるで小さな森。画像 ▲白鳥御陵にちなんで、御陵橋。

 余談ですが、日本武尊は東征のときに弟橘比売を連れて行きました。しかし海で嵐に遭い、生贄として弟橘比売は自ら海に身を投げたそうです。そのとき日本武尊は「ああ、吾が嬬よ」と叫びました。その「ああ、わがつまよ」が「あづま(吾嬬)」となり東のことを「あづま」と呼ぶようになったのです。
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 やっぱり日本武尊は白鳥になって海へと弟橘比売を追ったということにしましょうよ。その結末がいいな。白鳥御陵は尾張氏の墓だって判明しているのですし。
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 ああ、現実と妄想が絡み合う素敵な世界。熱田で神話に想いを馳せるのも一興です。
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