おいでよ!名古屋みゃーみゃー通信 第4章 名古屋の文化・風習

名古屋を歌うご当地ソングは…なぜヒットしない

記事公開日:2004年9月25日

おいでよ!名古屋みゃーみゃー通信 第41回

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 ご当地ソング、といわれるものがあります。それはその街や地方を題材にした歌です。

 ぱっと思いつくところを挙げてみますと、「津軽海峡冬景色/石川さゆり」(青森)や「青葉城恋歌/さとう宗幸」(仙台)「長崎は今日も雨だった/前川清」(長崎)などがすぐに思い浮かびます。ご当地と言っても地方だけではなく、「大阪で生まれた女/BORO」「悲しい色やね/上田正樹」(大阪)、そして「TOKIO/沢田研二」(東京)なんてのもあります。

 また、この地方でも「柳ヶ瀬ブルース/美川憲一」や「奥飛騨慕情/竜鉄也」(岐阜)、三重県は...三重は...「♪伊勢のめいぶーつー、赤福もちはええじゃないか。」ってこれはCMソングですけれども、まあこんな具合で都会田舎問わず各地にご当地ソングはあります。

名古屋の歌ってあるの?

 最近、インターネットで「名古屋はええよ!やっとかめ/つボイノリオ」の非公式プロモーションビデオが作られ一部でとても有名になりました。しかしこの曲自体は1985(S60)年に発売されたものですが、当時流行ったという記憶はありませんし、最近耳にした方も初めて聞いたという人が多いのではないでしょうか。その他に「名古屋の歌といって思い出すものはありますか?」とあなたは聞かれたら答えることができますか?

 名古屋にご当地ソングは無い。というわけでは決してありません。調べてみると驚くほど名古屋の歌は存在します。まずは戦前を見てみます。

江戸時代に歌われた名古屋は...

 古くは江戸時代の「名古屋甚句」に遡ります。名古屋甚句は江戸時代に歌われ始めたものですが、その後歌詞が付け加えられていきます。この歌詞を見ると思わず笑ってしまいます。

「花の名古屋の碁盤割りはエー、都に負けない京町や...」と、都にすぐ張り合いたがる名古屋の性格を表していたり、1871(M4)年に東京・湯島聖堂で開かれた第1回勧業博覧会で名古屋城の金鯱が展示されたことについて歌った部分では、「東京までも送られて、博覧会にさらされて、幾十万の人々に、鯱じゃ鯱じゃと指差され、こんなにくやしいことはない、いっそ死んだがましかいな。」と金鯱の心が歌われています。

 いや、そんなに悔しい思いはしていないと思うのですけど...。別にさらしものとして東京で展示されたわけではないと思いますしね。

 それともこの頃は金鯱が名古屋の誇れる存在ではなく、恥ずかしい存在だったのでしょうか。しかしそんな金鯱の気持ちとは裏腹に、その後も金鯱は国内外のいくつもの博覧会で展示されました。そして134年の時を越え、2005(H17)年に開かれる愛・地球博でも開会式に金鯱は参加します。参加される方は「鯱じゃ鯱じゃ」と指を差さないようにお願いします。金鯱の心理を汲んでやってください。

名古屋甚句
▲熱田神宮にある名古屋甚句の碑。江戸時代から名古屋っ子は既に...。

昭和に入り続々作られた名古屋ソング

 名古屋の街の歌として明治時代に初めて作られたのは、1910(M43)年の「名古屋市歌」です。当時は市の歌を作ることが各地で流行しており、名古屋もそれに乗っかったという形でした。

 その後は1931(S6)年「大名古屋行進曲/四家文子」、1933(S8)年「名古屋まつり/藤山一郎」、1934(S9)年「名古屋よいとこ/松平晃」「名古屋おどり/葭町藤本二三吉」、1935(S10)年「名古屋ざかり/市丸・三島一声」、1936(S11)年「名古屋娘/豆千代」、そして1937(S12)年には港区役所周辺で開催された「汎太平洋平和博覧会」のイメージソング「汎太博行進曲/二葉あき子・松平晃」、「名古屋ラプソディー/日本ビクター合唱団」と、この頃は意外にも毎年のように名古屋ソングが作られています。

戦後になると…

 戦後、1949(S24)年に「名古屋ブギー/笠置シヅ子」が発売されますが、笠置さんはブギの女王といわれ「東京ブギウギ」「大阪ブギウギ」「博多ブギウギ」「ブギウギ娘」「買物ブギー」など数多くあるブギのひとつとしてこの歌は歌われたもので、特に名古屋にスポットが当てられたわけではありませんでした。

 昭和30年代になると「しゃちほこ音頭/島倉千代子他」が古賀政男さんの作曲により発売されます。定着はしなかったのですが、なんとこのしゃちほこ音頭は2002(H14)年に「なごやHERO!DANCE」と名を変えラップダンスで復活しました。「金のシャチほこ東海道を照らすヨーイヨイ、でかい築港太平洋を照らす、名古屋魂国照らす、ソイヤ!」50年の時を経て古賀"名古屋"メロディーが名古屋の新定番となりますかどうか。これが結構いい感じに仕上がっています。

 この当時は他に1958(S33)年に「もぐらのチカチャン言ったとさ~」というフレーズが印象的だった「ナゴヤ地下街の歌/楠トシエ」、1961(S36)年には「今池音頭/ザ・ピーナッツ」が作られました。今池音頭も近年リメイクされ復活の兆しがあります。

いよいよ高度経済成長

 続いて昭和40年代です。1965(S40)年には地下鉄名城線開通を記念して「若いサブウェイ/川路英夫」、「名古屋駅前/鹿島一郎」、そして1967(S42)年には石原裕次郎さんの「白い街」が発売になります。この「白い街」は本気でヒットを狙ったつもりだったそうですが、残念ながら石原裕次郎さんの歌の中ではマイナーな部類になってしまったほどです。

 しかし、もしヒットしていたとしても、名古屋は白い街というイメージもどうなんでしょうか。薄く存在感の無い冷たい街という印象になってしまいそうな気がします。

 1971(S46)年には「名古屋ブルース/神戸一郎」「なごやの女/北島三郎」が発売されます。そして1974(S49)年、名古屋ソングではたぶん全国で一番知られているあの曲が発売になります。「燃えよドラゴンズ!/板東英二」です。この歌は選手名が入れ替えられ今も歌い継がれています。最近では2002(H14)年と2004(H16)年に水木一郎さんにより歌われています。ドラゴンズの応援には欠かせない歌です。

平和橋
▲汎太平洋平和博覧会で作られた平和橋。今も港区役所の前に。

ラジオから生まれたミュージシャン

 昭和40年代には、名古屋を代表するローカル歌手のひとりであり、「名古屋はええよ!やっとかめ」の歌手として知られるつボイノリオさんがデビューを飾っています。彼はまだ大学在学中だった1970(S45)年に「本願寺ぶるーす」を発売します。

 一躍人気となり当時東海ラジオで大人気だった深夜番組「ミッドナイト東海」のパーソナリティに抜擢されるのですが、この歌は宗教のパロディソングということであっという間に放送禁止になります。その5年後の1975(S50)年、今度は「金太負けるーな(金玉蹴るーな)」と韻をふむことで卑猥な言葉を並べた「金太の大冒険」を発売するもやはりすぐに放送禁止になります。

 歌の放送は禁止になったもののつボイさんは人気を得て、1977(S52)年には全国ネットの「オールナイトニッポン」パーソナリティとなり名古屋を離れます。

 つボイさんはこのようにギリギリといいますか、いわゆるアングラな歌で人気を得たのであって当時特にご当地ソングを歌っていたわけではありません。そんなつボイさんとは正反対、正統派な歌でデビューしたのが同じく「ミッドナイト東海」で大人気だった宮地由起夫(現:佑紀生)さんです。

 宮地さんはアクセサリーショップを経営する傍ら、ラジオで喋り、さらにバンド活動もしていました。そのバンド「無有(ムー)」が1976(S51)年に発売したのが「名古屋っ子」です。

宮地さん
▲「名古屋っ子」の宮地佑紀生さん。写真は愛が欲しいを歌っている所。

「何かやらんとあかんがやー」というフレーズが耳に残るこの歌は、東と西から刺激的な文化が入ってくる名古屋だからこそ、それらを吸収してとにかく何かをやらなければ、と名古屋っ子を応援する歌でした。

 放送禁止となったつボイさんとは対照的に、この「名古屋っ子」で宮地さんは全国フォーク音楽祭作詞賞を受賞しています。ギリギリな話がウリのつボイさんと正統派な名古屋っ子宮地さんという構図はこの時から始まり、それは今も続いています。

 さて、ここまで江戸時代から昭和50年代初頭までの名古屋ご当地ソングを見てきましたが、大ヒットを収めたといえるものはありません。すると名古屋っ子はわがままで、これだけ作られたにもかかわらずヒットしなかったことから「名古屋にはなぜご当地ソングが無いんだ。」と言い出しました。そしてこの後、名古屋のマスコミが音頭をとりご当地ソングをヒットさせようとしますが果たしてその結果は...それは次回です。

「何かやらんとあかんがやー」

 レールに乗って堅実な道を歩くのが大好きな名古屋っ子にとって、この歌詞はグサっとくるものがあります。だから、それを実践されている宮地さんに名古屋っ子は惹かれるのでしょう。

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▲対象は、京都・東京と変われども、名古屋っ子の根本は何も変わっていなかった。

この記事をもとにラジオの特別番組が制作され構成を担当しました

ヒットせんで、いかんがね 検証名古屋ご当地ソング

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